蜀と呉の関係(公式)?
蜀と呉の外交関係、同盟関係はどんな感じだったのかなとか。
255年、孫峻伝にこんな記述がある。
(孫峻伝)
五鳳元年(254)、呉侯英謀殺峻、英事洩死。
二年(255)、魏毋丘倹、文欽以衆叛、与魏人戦於楽嘉、峻帥驃騎将軍呂據、左将軍留賛襲寿春、会欽敗降、軍還。
是歳(255)、蜀使来聘、将軍孫儀、孫邵綝恂等欲因会殺峻。事洩、儀等自殺、死者数十入、並及公主魯育。
蜀と呉の外交関係は、使者のエピソードには伺えるけれど(費禕とか)、本紀部分にはほとんど書いてないような気がしてめんどくさい。
一応、孫権伝はこんな。
(呉主伝)
(222年)
冬十一月,蜀使中郎将鄧芝來聘。
呉歴曰:蜀致馬二百匹,錦千端,及方物。自是之後,聘使往來以為常。呉亦致方土所出,以答其厚意焉。
(223年)
(黄武)三年夏,遣輔義中郎将張温聘於蜀。
蜀側はこう。
(後主伝)
是歳(223)、立皇后張氏。遣尚書(郎)鄧芝固好於呉、呉王孫権与蜀和親使聘、是歳通好。
あとは227年の詔の中でも呉のことが触れられている。
呉王孫権同卹災患、潛軍合謀、掎角其後。
で、個人の伝だと使者の話は時々出てくるけれど、これは恒例のことだったのか、特に用があるときだけだったのか。
蜀と呉の関係(非公式)
諸葛亮は兄諸葛瑾や陸遜に手紙を送ったりしているし、非公式なやりとりもそれなりにあった様子。
魏からも手紙きてたり、魏にいた孟達にも手紙を送っていたりするし、手紙の往来は結構よその国にも出せたのかな。
諸葛恪と姜維とかも。
(諸葛恪伝注)
〈漢晉春秋曰:恪使司馬李衡往蜀説姜維,令同舉,曰:「古人有言,聖人不能為時,時至亦不可失也。今敵政在私門,外内猜隔,兵挫於外,而民怨於内,自曹操以來,彼之亡形未有如今者也。若大舉伐之,使呉攻其東,漢入其西,彼救西則東虛,重東則西輕,以練實之軍,乘虛輕之敵,破之必矣。」維從之。〉
これは253年。
蜀と呉の関係(253、255)
諸葛恪から姜維への手紙は253年。
費禕宛でなく姜維宛ということは費禕死後(→年表)。
費禕は253年1月、諸葛恪は10月に暗殺されている。
でもって、孫峻伝のこれが255年。
(孫峻伝)
是歳(255)、蜀使来聘、将軍孫儀、孫邵綝恂等欲因会殺峻。
呉と蜀の使者のやりとりは、正直どうでもいいエピソード(おもしろいから好きだけどそれはそれ)は残っているのに用事は何かいまいちわからない。
たとえば費禕、何しにいったのか(いつかも不明、そのうち調べたい)。
諸葛恪と嫌味の応酬しにいったわけじゃないと思うし。
とりあえず255年正月には姜維は成都に戻ってきているから、この使者のことは知っているだろうなとか。
誰なんだろう?
あと施績(朱績)が蜀と連絡をとったのも近い時期。
(朱績伝)
二年(253)春、恪向新城、要績並力、而留置半州、使融兼其任。冬、恪、融被害、績復還楽郷、仮節。
太平二年(257)、拜驃騎将軍。
孫綝秉政(256-258)、大臣疑貳、績恐呉必擾乱、而中国乗釁、乃密書結蜀、使為並兼之慮。蜀遣右将軍閻宇将兵五千、增白帝守、以須績之後命。
永安初(258-264)、遷上大将軍、都護督、自巴丘上迄西陵、元興元年(264)、就拜左大司馬。
初、然為治行喪竟、乞復本姓、権不許、績以五鳳中(254-256)表還為施氏、建衡二年(270)卒。
てことで。
姜維が北伐連発している時期(253-257)は、蜀と呉の関係は悪くはなかったのかもしれない。
(施績のも施績自身蜀への不信感はなかったってことで)
劉備の頃は古すぎるとしても、蒋琬は歩騭とかに不審がられたりしていたし。
三国志の250年代の魅力
それはそうと、三国志の250年代はいろいろ魅力的な時期なんじゃないかと思ったり。
蜀の姜維は活発に北伐しているし、呉は孫権が死んで諸葛恪→孫峻→孫綝のいろいろアレなリレー中だし、魏も司馬氏が台頭して毌丘倹の乱、諸葛誕の乱、しめくくりの260年の曹髦の死とかいろいろイベントは盛り沢山。
そして一国内でみてても面白いけれど、ただ直接の戦争以外でも、対外関係関連もそれなりに色々あって楽しそう。
もう少し調べたいなーと思うけれど。
とりあえずこの記事は終わり。