2016.03.04
6005文字 / 読了時間:7.5分程度
三国志

昨日、三国志13で過小評価武将は誰か考えていたときに思いついた諸葛瞻の評価に関するメモ。

諸葛瞻が敗れたのは相手(鄧艾)が悪かっただけという可能性について

諸葛瞻のイメージとしては、宦官黄皓と結託して姜維の足を引っ張って、ついでに鄧艾にあっけなく敗北して殺された不肖の息子(父は諸葛亮)という印象があるけれど。

とはいえ相手が鄧艾だということを考えればもしかしたら単に相手が悪かっただけ(姜維も段谷の戦いでは鄧艾に大敗してるし)という可能性もあるのではと思いついたり。
1回だけ戦ってその1回で大敗して殺されたから、有能(軍事的に)という評価がされづらいだけで。

諸葛瞻伝における諸葛瞻の敗死

てことで、まずは諸葛瞻伝のその箇所をみてみる。

(諸葛瞻伝)

六年冬、魏徵西将軍鄧艾伐蜀、自陰平由景穀道旁入。
瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住綿竹。
艾遣書誘瞻曰、「若降者、必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。
遂戦、大敗、臨陣死、時年三十七。
衆皆離散、艾長駆至成都。
瞻長子尚、与瞻倶沒。

六年(263)冬、魏の征西将軍鄧艾が蜀を討ち、陰平から景谷道を通り侵入してきた。
諸葛瞻は諸軍を率いて涪(ふ)に赴き駐留していたが、先鋒隊が敗北したので退却し、綿竹県に陣どった。
鄧艾は手紙を送り、諸葛瞻を誘って、「もしも降伏したならば、必ず上表して瑯邪王にとりたてよう」といってきた。
諸葛瞻は激怒し、鄧艾の使者を斬った。
かくて合戦したが、大敗し、前線で死亡した。
時に三十七歳。軍勢はすべてちりぢりになって逃亡した。

「遂戦、大敗、臨陣死」ということで、ここまできれいに大敗して戦死したと書かれている人もそういないような。

なので、大敗した人の印象が強いのはどうしようもないのは確か。

鄧艾伝における諸葛瞻の敗死

次に鄧艾伝をみてみる。

(鄧艾伝)

冬十月,艾自陰平道行無人之地七百餘里,鑿山通道,造作橋閣。山高谷深,至為艱險,又糧運将匱,頻於危殆。艾以氈自裹,推轉而下。将士皆攀木緣崖,魚貫而進。
先登至江由,蜀守将馬邈降。
蜀衛将軍諸葛瞻自涪還綿竹,列陳待艾。
艾遣子惠唐亭侯忠等出其右,司馬師纂等出其左。忠、纂戰不利,並退還,曰:「賊未可撃。」
艾怒曰:「存亡之分,在此一舉,何不可之有?」乃叱忠、纂等,将斬之。
忠、纂馳還更戰,大破之,斬瞻及尚書張遵等首,進軍到雒。
劉禪遣使奉皇帝璽綬,為箋詣艾請降。

先陣が江由に到達すると、蜀の守備隊長馬邈は降伏した。
蜀の衛将軍諸葛瞻は涪から綿竹へ引き返し、陣を連ねて鄧艾を待ち受けた。
鄧艾は子の恵唐亭侯鄧忠に敵の右陣を、司馬の師纂に左陣を攻撃させた。鄧忠・師纂は戦いに負け、いずれも退却してきて、「賊はまだ攻撃不可能です」といった。鄧艾は腹を立て、「存亡の分れ目は、この一戦にかかっているのだ。どこに不可能などということがある」と、鄧忠・師纂をどなりつけ、斬罪に処そうとした。
鄧忠と師纂は馳せ戻ってもう一度戦闘を交え、敵をさんざんにうち破って、諸葛瞻と尚書張遵らの首を斬った。

鄧艾伝の方も似たような感じではあるけれど。

ただ、諸葛瞻はそれなりに軍事的能力があったと考える根拠もここでは見いだせなくもなかったり。

つまり、最初は諸葛瞻は「艾遣子惠唐亭侯忠等出其右,司馬師纂等出其左。忠、纂戰不利,並退還,曰:賊未可撃」というふうに優勢ではあったわけで。
これは鄧艾じゃなくて鄧忠と師纂だっただけで、鄧艾に脅されただけで、諸葛瞻は大敗することになったのだからやっぱり大したことはないと考えることは確かに充分に可能。
というか、それでも充分説得力はあるとは思うけれど。

それでも今回は、諸葛瞻は有能説について考えてみたいので、先に進む。

当時の諸葛瞻

(諸葛瞻伝)

景耀四年、為行都護衛将軍、与輔国大将軍南郷侯董厥並平尚書事。

景耀四年(261)、行都護衛将軍となり、輔國大将軍・南郷侯の董厥とともに、平尚書事となった。

当時の諸葛瞻は行都護衛将軍だったらしい。

諸葛瞻が虚名だけというのは印象操作なのか

諸葛瞻が虚名だけという印象の根源は、そもそも陳寿が諸葛瞻伝で「有過其実」と実際に書いてあるから、そういう印象になるのも無理はなかったり。

(諸葛瞻伝)

瞻字思遠。
建興十二年、亮出武功、与瑾書曰、「瞻今已八歳、聰慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳。」
年十七、尚公主、拜騎都尉。其明年為羽林中郎将、屢遷射声校尉、侍中、尚書僕射、加軍師将軍。
瞻工書畫、強識念、蜀人追思亮、咸愛其才敏。
毎朝廷有一善政佳事、雖非瞻所建倡、百姓皆伝相告曰、「葛侯之所為也、」是以美声溢譽、有過其実。

諸葛瞻は字を思遠という。
建興十二年(234)、諸葛亮が武功に出陣したとき、兄の諸葛瑾に手紙を送って、
「瞻はいまもう八歳で、利巧なかわいい子ですが、早成して、大物にならないのではないかと気がかりです」と述べている。
十七歳のとき公主をめとり、騎都尉を拝命した。その翌年、羽林中郎将、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された。
諸葛瞻は書画が巧みで、記憶力がよく、蜀の人々は諸葛亮を追慕して、みな彼の才能を愛した。
朝廷にちょっとした善政やめでたい事があるたびに、諸葛瞻がいい出したことではなくとも、人々はみなその話を伝えあって、「葛侯のなさったことだ」といった。
このためすばらしい評判にみちみち、彼の実質以上でさえあった。

とはいえ、陳寿による(もと蜀の人間の陳寿が諸葛瞻を評価していない等。この書き方ならそうとる方が自然だろうけど)印象操作の可能性もなくはないし。

つまりこの辺で書かれている具体的な事実の一つは「みな彼(諸葛瞻)の才能を愛した」だけれど。
その周辺に、「年十七、尚公主」「瞻工書畫」「強識念」「蜀人追思亮」と諸葛瞻の政治家(なり軍人なり)としての評価にまったく直結しない理由(これ自体は陳寿のつなげ方、書き方の問題ともいえる)を散りばめているので、なんとなくこの辺から、諸葛瞻は親の七光と芸術的才能みたいなもので愛されていただけで実力は伴わないという印象を受けることになる。

とはいえ、「蜀人追思亮、咸愛其才敏」のうち「追思亮」は陳寿の解釈でしかなく、事実だったのは「蜀人(追思亮)、咸愛其才敏」「蜀人咸愛其才敏」という部分だったかもしれない可能性はある。

そうなると具体的に、愛されるだけの功績をたてる実績が、陳寿が書いていないだけで諸葛瞻にはあったかもしれない可能性も充分考えられる。

そもそも無関係なことまで勝手に諸葛瞻の功績にされるのは諸葛亮も同じだったと考えられるけれども(諸葛亮ではこんな噂が立たないのにその子の諸葛瞻になると父親の七光でそんな噂が立つようになるのは不自然)、諸葛亮の場合はそんな庶民の噂があろうがなかろうがそれによって実力を疑われたりはしないわけで、諸葛瞻にだけそのような論法で能力を評価するのは不公平なのではないかとか。

印象操作の連鎖

さらに裴松之が引く注も、陳寿の諸葛瞻評をより増幅させていく。

干宝は、そのまま陳寿評価の拡大みたいなもの。

干寶曰、瞻雖智不足以扶危、勇不足以拒敵、而能外不負国、内不改父之志、忠孝存焉。

干宝はいう。
諸葛瞻は危難を救うにたる智恵も、敵を防ぎ止めるだけの武勇ももたなかったが、しかしよく外は国家を裏切らず、内は父の志にそい、忠孝を貫いた。

これが諸葛瞻無能説をさらに強めている感じ。
陳寿はここまではいっていないのに、「瞻雖智不足以扶危、勇不足以拒敵」とまで言い切り、文武ともに無能という印象を高めていく。

華陽国志(常璩)は、それほど直接的ではないけれど、間接的にはやはり諸葛瞻の子の言葉に仮託して、諸葛瞻を批判している。

華陽国志曰、尚嘆曰、「父子荷国重恩、不早斬黄皓、以致傾敗、用生何為!」乃馳赴魏軍而死。次子京及攀子顯等、咸熙元年内移河東。案諸葛氏譜云、京字行宗。

『華陽国志』にいう。
諸葛尚は慨歎して、「父も子も国家の厚い恩義を荷っているのに、さっさと黄皓を斬らなかったために、敗北を招いてしまった。生きていて何になろうか」といい、かくて魏軍に突進して、討死した。

蜀が滅びたのは黄皓のせいでありその黄皓をのさばらせた諸葛瞻も同罪、といっているようなものだろうし。

蜀の土地での受け取られ方を、注に引かれているこれらは伝えている可能性はある。

ただ、陳寿は諸葛尚の死については「瞻長子尚、与瞻倶沒」とかいただけなので、土地の噂や伝聞はかなり内容は事実ではない(ただしその土地の人間が何を考えたり望んだりしたかの事実は伝える)ことの方が多いわけだし、この逸話の真偽自体については微妙なんじゃないかなとは思ったり。

参考――諸葛瞻伝

瞻字思遠。建興十二年、亮出武功、与瑾書曰、「瞻今已八歳、聰慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳。」
年十七、尚公主、拜騎都尉。其明年為羽林中郎将、屢遷射声校尉、侍中、尚書僕射、加軍師将軍。
瞻工書畫、強識念、蜀人追思亮、咸愛其才敏。毎朝廷有一善政佳事、雖非瞻所建倡、百姓皆伝相告曰、「葛侯之所為也、」是以美声溢譽、有過其実。
景耀四年、為行都護衛将軍、与輔国大将軍南郷侯董厥並平尚書事。六年冬、魏徵西将軍鄧艾伐蜀、自陰平由景穀道旁入。
瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住綿竹。
艾遣書誘瞻曰、「若降者、必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。遂戦、大敗、臨陣死、時年三十七。
衆皆離散、艾長駆至成都。
瞻長子尚、与瞻倶沒。

  干寶曰、瞻雖智不足以扶危、勇不足以拒敵、而能外不負国、内不改父之志、忠孝存焉。

  華陽国志曰、尚嘆曰、「父子荷国重恩、不早斬黄皓、以致傾敗、用生何為!」乃馳赴魏軍而死。次子京及攀子顯等、咸熙元年内移河東。案諸葛氏譜云、京字行宗。

  晋泰始起居注載詔曰、「諸葛亮在蜀、尽其心力、其子瞻臨難而死義、天下之善一也。」其孫京、隨才署吏、後為郿令。尚書僕射山濤啟事曰、「郿令諸葛京、祖父亮、遇漢乱分隔、父子在蜀、雖不達天命、要為尽心所事。京治郿自復有称、臣以為宜以補東宮舍人、以明事人之理、副梁、益之論。」京位至江州刺史。

諸葛瞻は実は軍事的才能はあった説(鄧艾に負けたのは相手が悪かっただけ)の可能性?

というわけで、諸葛瞻は実は軍事的才能はあった説(鄧艾に負けたのは相手が悪かっただけ)のIF的なものを考えてみることに。

綿竹でわざわざ迎えうった(鄧艾伝「蜀衛将軍諸葛瞻自涪還綿竹、列陳待艾」)のは、諸葛亮が最後に五丈原に陣をしいたように、それなりに策はあったんじゃないかなとか。
鄧艾伝では、最初に諸葛瞻優勢だったけれど、鄧艾に叱咤(というか脅迫)された鄧忠らが次には諸葛瞻を打ち破ったとだけある。

とはいえこの鄧艾の脅迫については、鄧艾の当時(陳寿の晋時代)の評価が反逆者だったから、悪く書かれたということも充分可能。
てことで、この一度戻ってきた鄧忠たちに、鄧艾自身が指示を出していたと考えられなくもない。

というか、敵地に深く入り込んだ状況の鄧艾の立場からしてこの時点では余裕がそれほどあるわけもなさそうだし、突き放している場合じゃないとは思えるし。

というわけで、二度目に諸葛瞻が敗れたときに諸葛瞻が相手にしていたのは鄧忠たちではなく鄧艾自身だったと考えてよく、それなら諸葛瞻が鄧艾に勝てるほどでなければしかたないということもできなくはない。

たとえば、ゲーム的に考えれば(もとの発想がゲームの能力値のことだったし……)、鄧艾と姜維の能力値は僅差だけど、姜維は段谷や侯和で鄧艾に敗れている。

姜維 92/89/90/66 A/S/A 決死指揮
鄧艾 93/87/89/81 S/A/A 突撃指揮

ゲーム数値的思考によって、姜維が鄧艾に能力的に劣っていると考えるなら、鄧艾の統率(93)が姜維の統率(92)を上回っていたからとしかいいようがない。
ということは諸葛瞻の能力値も鄧艾の93未満だったらどこでもありえるわけで、諸葛瞻の統率92と考えてもおかしくない。

ゲーム的発想はここまで。

ともかく、諸葛瞻は事実としては鄧艾相手には1回敗れただけであり、その一回で死んだからその実力はかなり未知数なだけで潜在能力(便利な概念)はかなり高かったかもしれない――という可能性自体を否定することはできないのではないか。

諸葛瞻と姜維の関係については董厥伝やそこの注で触れられているけれど。
今回は話がそれるし気力がないので割愛。

とりあえず引用だけ。

(董厥伝)

自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯

孫盛異同記曰、
瞻、厥等以維好戦無功、国内疲弊、宜表後主、召還為益州刺史、奪其兵権;蜀長老猶有瞻表以閻宇代維故事。
晋永和三年、蜀史常璩説蜀長老云、「陳寿嘗為瞻吏、為瞻所辱、故因此事帰悪黄皓、而雲瞻不能匡矯也。」……

とりあえず孫盛さんが集めた証言によると、陳寿は諸葛瞻に私怨があったらしい。

黄皓と姜維は対立していたらしいけれど、黄皓と対立しなかった諸葛瞻と姜維がどうだったかはどうなのか。
黄皓が結託したのは閻宇としか書かれていないし。

(姜維伝)

五年,維率眾出漢。侯和為鄧艾所破,還住沓中。
維本羈旅托國,累年攻戰,功績不立。而宦官黄皓等弄権於内,右大将軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇
維亦疑之,故自危懼,不復還成都。

姜維はもともと故郷を離れて蜀に身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら、功績を立てることができずにいるうち、宦官の黄皓らが宮中にいて権力をわがものとし、右大将軍の閻宇が黄皓と結託した。
しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もそれを疑っていたので、危惧の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。

とりあえず、諸葛瞻有能説的には、評価を下げることになる宦官との結託なんかしないほうが都合がいいのは事実なんだし、諸葛瞻は別に黄皓と結託してないと考えてもいいんじゃないかなとか。

黄皓が閻宇を姜維に代わらせようとしたことはあったとしても、それに同調したという記述は孫盛さん(いろいろ創造性が高い人だし、姜維伝みると姜維の評価最悪だから姜維がらみだと眉唾の可能性高い予感がするし)だし……。

まとめ

そういう方向性でもう少し考えてみてもおもしろいかと思ったり。

個人的には諸葛瞻は今まで、演義と同じような受け取り方で別段好きでもなかったけれど(嫌いなわけもないけど)、こうやって独自解釈に突き進んでいけば、もっとおもしろいと思える可能性が見いだせる人なんじゃないかと思ったり。

長くなったので終わり。





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