ミラン・クンデラの小説に関する考察はとても魅力的。
それが魅力的だというのは、小説とは何かを考える上で、小説の本質について鋭い考察を語ってくれているからだと思うけれど。
ミラン・クンデラの小説には、エッセー部分も多く含まれている。
そして、そのことについて、クンデラ自身も語っている。
そんなミラン・クンデラの小説考察に、一番まとまったかたちで触れられるのが、『小説の精神』ではないだろうか。
というわけで、しばらく、ミラン・クンデラの『小説の精神』の読書メモをとっていこうと思ったり。
今回は、「第4部 創作技法についての対談」を中心に見ていく予定。
ミラン・クンデラが考える小説3つ課題?
冒頭インタビューアーが、クンデラの書いたものを引用した部分より。
……私たちには次のものが必要であることがわかる。
(1)徹底的切り捨ての新しい技法(これによって、近代世界における人間存在の複合性を、構成の明晰さを失うことなく包含することができる)。
(2)小説的対位法の新しい技法(哲学や物語や夢をひとつの音楽に融合することのできる)。
(3)小説特有のエッセーの技法(いいかえれば、必然的なメッセージをもたらそうとするものではなく、仮説的で、遊びの、ないしイロニーにとどまっているもの)。
この第4部の対談では全体にわたって、この三つについてクンデラが語っている。
小説に必要なもの1――「徹底的切り捨ての新しい技法」
まずは、「徹底的切り捨ての新しい技法」について。
作曲家ヤナーチェクの方法を引用して、小説にも同じような技法が必要だと説く。
つまり、必須のことを語っている音符だけが存在する権利を持っている、というわけです。
……
小説もまた〈技術〉を、すなわち、作者にかわって作用するさまざまの約束事をしょい込んでいます。登場人物を提示し、環境を描き、行動を歴史状況にもちこみ、登場人物の生活時間を無益な挿話でうめる。……
私の至上命令は〈ヤナーチェク流〉でして、つまり、小説から小説的技術を、小説的駄弁という自動装置をとり除き、小説を密度の濃いものにすることです。
ただ、ここでクンデラが小説的技術や小説的駄弁といっているものが何かには注意する必要がある。
第2部にあるこの箇所で(別に触れる予定)述べられている内容が、彼が取り除いていいと考える部分であるといえるのではないか。
(38ページ)
事実、二世紀にわたる心理的写実主義によってほとんど不可侵の基準がいくつか作られてきました。
(1)作家は、要望、話しぶり、行動など登場人物にかんする情報を最大限提供しなければならない。
(2)登場人物の過去は読者に知らしめなければならない。彼の現在の行動誘因はすべて過去にあるがゆえに。
(3)登場人物は完全に自立していなければならない。つまり、幻想に身をゆだね、虚構を現実と思いたがっている読者の邪魔をしないため、作者は顔をだしてはならず、また自説の開陳は控えなければならない、といった基準ですね。
クンデラが取り除くべきと考える要素とは、おそらくここでいう「心理的写実主義」という「不可侵の基準」のことであるだろう。
それにしても現代では、あるいは現代の日本では、このクンデラが「徹底的切り捨ての新しい技法」によって取り除くべき要素だと考えている部分は、「心理的写実主義」と理解していなくても「不可侵の基準」と考える人が大多数なのではないか。
とりあえず、今引用した2箇所をまとめるとこうなる。
(まとめ)
心理的写実主義によってほとんど不可侵の基準がいくつか作られてきたが、それは「徹底的切り捨ての新しい技法」によって取り除かれるべきである。
(1)作家は、容貌、話しぶり、行動など登場人物にかんする情報を最大限提供する――必要はない。
(2)登場人物の過去は読者に知ら――せなくていい。彼の現在の行動誘因はすべて過去にある――わけではない。
(3)登場人物は完全に自立していな――くてかまわない。つまり、幻想に身をゆだね、虚構を現実と思いたがっている読者――に配慮する必要はまったくなく、作者は顔をだして――いいし、また自説の開陳は――好きにやっていい。
これらのクンデラの考え方にそうものとして、カフカがしばしばあげられている。
たとえば、カフカの「城」の主人公は「K」で名前も経歴も提示されておらず、「(1)作家は、容貌、話しぶり、行動など登場人物にかんする情報を最大限提供する」を無視している実例であるということ。
なぜ、クンデラがこのような切り捨ての技法が必要だと考えたのか。
それは「小説を密度の濃いもの」にするためである。
それについてクンデラはこのような比喩から説明する。
大きすぎてとても一望できない城、演奏時間九時間の弦楽四重奏曲を考えてみてください。
……
本をそろそろ読み終えるというとき、その始まりのところが覚えていられるべきなのです。
そうでないと小説は形をくずし、その「構成の明晰さ」が曇ってしまいます。
切り捨ての技法は小説の「構成の明晰さ」を失わないためでもある。
具体的には、小説において現代では不可侵と考えられているような登場人物の扱いに関する基準(小説的技術、小説的駄弁)を取り除いてゆき、小説を密度の高いもの、構成の明晰なものにするべきである――ということではないか。
まとめ
とりあえず今回の記事はここまで。
この1番目の「徹底的切り捨ての新しい技法」については短めだった。
のこり2つにいくか他の部分にいくかは未定。
ただし、しばらくクンデラのこの本の読書メモはとっていくつもり。
すごく、役に立つと思うし。
ちなみに、基本的に引用部分でも強調部分は原文どおりにはこだわらない。
あくまで、自分が忘れないための覚書ということで。
おわり。