2016.02.05
4947文字 / 読了時間:6.2分程度
三国志

鄭玄と姜維に関して、どこかに書いた記憶はあるような気がするのに、探しても見つからなかったり。

かなり前、具体的には2015年の8月にはそれに関する断片的なメモがあるから、ないかなあとあちこち探したけど見つからない。

てことでしかたないので、また思い出して書いておくことに。

姜維と鄭玄の関係?

まずは姜維は鄭玄の学問を好んだ、と姜維伝に書いてある部分の確認から。

(姜維伝)

https://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B744

姜維,字伯約,天水冀人也。少孤,與母居,好鄭氏學。

姜維は字を伯約といい、天水郡冀県の人である。幼くして父を失い、母と暮らした。鄭玄の学問を好んだ。(一)

てことで、姜維は鄭玄の学問を好んだらしい。

鄭玄の大量の弟子

で、鄭玄のほう。

三国志にも名前はちょくちょく出てくるけど、とりあえず後漢書の鄭玄伝はここ。

鄭玄伝(後漢書)

https://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E6%9B%B8/%E5%8D%B735

靈帝末(-189),黨禁解,大將軍何進聞而辟之。州郡以進權威,不敢違意,遂迫脅玄,不得已而詣之。進為設幾杖,禮待甚優。玄不受朝服,而以幅巾見。一宿逃去。
時年六十,弟子河內趙商等自遠方至者數千。……

董卓遷都長安(191),公卿舉玄為趙相,道斷不至。會黃巾寇青部,乃避地徐州,徐州牧陶謙接以師友之禮。建安元年,自徐州還高密,道遇黃巾賊數萬人,見玄皆拜,相約不敢入縣境。玄後嘗疾篤,自慮,以書戒子益恩曰:

とりあえず気になった部分はこの「弟子河內趙商等自遠方至者數千」辺り。

何進に脅されていやいや都へいったけどやっぱり逃げたときに弟子が遠くから数千人来たという感じ。

前後の出来事をみると、189-191年の間のことらしい。

てことで、遠方から鄭玄のところへ来るような弟子が数千人はいたらしい。

姜維がなぜ鄭玄の学問を好んだかに関する、推論、仮説

どの学問を好むか、おさめるか、基本的にはこの辺の時代は、家とか親の影響は強いはず。

てことで、姜維が鄭玄の学問を好んだ理由はその父親姜冏が鄭玄の学問を好んだから――と考えるのが最も納得しやすい仮説ではないか、とか。

仮説、鄭玄の学問を好む姜維父姜冏?

姜維が202年生まれ、ついでに字の伯約から長男ってことで、姜維父の生年はわからないけれど、有り得そうな年代の中間値的には、姜維が生まれた時30歳から32歳くらいにしておくと計算もやりやすくて便利。

てことでその時32歳というか、170年生まれ(160-180位)ってこととして仮に考えてみる。

ちなみに鄭玄の生没年は127-200年。

てことで、姜冏は天水の人だから鄭玄の活動範囲からは離れてはいるけれど、鄭玄の学問を好むようになることは、充分考えられるはず。

姜冏、姜維の一族は天水の大族だということ

その根拠。

姜冏や姜維の一族、天水の姜氏は、天水四姓の一つで、地元の豪族だということ。

姜維伝の注の姜維の若いころについて、少なくとも裕福そうなのは確か。

(姜維伝注)

傅子曰:維為人好立功名,陰養死士,不脩布衣之業。

『傅子』にいう。姜維は功名を樹立することを好む人物で、ひそかに決死の士を養い、庶民の生業にたずさわらなかった。

「少孤,與母居」でこれってことは、生活には困ってなさそうだし。

一族は有力だけれど若いころ父親を失くしたということで、比較しやすいのが姜維の場合劉備かも。

(先主伝)

先主少孤、与母販履織蓆為業。

先主は幼くして父を失ったが、母とともにわらじを売ったりむしろを編んだりして、生計をたてた。

ただ劉備も、自分の家がこうだっただけで、親戚からお金を出してもらって都に留学したり、派手好きそうではあるし。

(先主伝)

先主少時、与宗中諸小兒於樹下戯、言、「吾必当乗此羽葆蓋車。」叔父子敬謂曰、「汝勿妄語、滅吾門也!」
年十五、母使行学、与同宗劉徳然、遼西公孫瓚倶事故九江太守同郡盧植。
徳然父元起常資給先主、与徳然等。元起妻曰、「各自一家、何能常爾邪!」起曰、「吾宗中有此兒、非常人也。」
而瓚深与先主相友。瓚年長、先主以兄事之。先主不甚楽讀書、喜狗馬、音楽、美衣服。
身長七尺五寸、垂手下膝、顧自見其耳。少語言、善下人、喜怒不形於色。
好交結豪俠、年少爭附之
中山大商張世平、蘇雙等貲累千金、販馬周旋於涿郡、見而異之、乃多与之金財。先主由是得用合徒衆。

十五歳の時、母親が遊学させ、一族の劉徳然、遼西の公孫瓚といっしょに、前の九江太守で同じ郡出身の盧植の弟子になった。
劉徳然の父劉元起はいつも先主に学資を与えて、息子の劉徳然と同等の扱いをした。
……
先主は読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた。
……
好んで天下の豪傑と交わったので、若者たちは争って彼に近づいた。

劉備についてはまたいずれ。

ただ、若いころの姜維との比較として、劉備の「好交結豪俠、年少爭附之」は姜維の「維為人好立功名,陰養死士」と、実際にやっていること自体は同じ系統のものではないかとか。

てことで、姜維の父という以外ほぼ情報のない姜冏だけど、姜維と少なくとも環境は大して違わないんじゃないかとも思ったり。

姜冏も劉備のように都に遊学していた可能性?

てことで、姜冏もまた若いころ、劉備等と同じように都に遊学していた可能性は、出自的に充分考えられたり。

この時代若い時期に都に遊学するということは、劉備だけでなくここででてくる公孫瓚にしろ、あるいはなんとなくすぐ思い出す諸葛瑾にしろ、資金さえあれば珍しくないみたいだし。

で、姜冏が若いころ遊学していたと考える場合、都に鄭玄はいない時期だったとしても(そのほうが確率高そう)、鄭玄の弟子がいるとか、都で鄭玄の評判を聞いて更に鄭玄のいるところへ行った、ということも、充分考えられそう。

姜冏は鄭玄の弟子だった説?

てことで、姜冏が鄭玄の弟子の一人だったと考えても充分可能性はあるんじゃないかなとか。

鄭玄伝のここ「弟子河内趙商等自遠方至者數千」の「自遠方至者數千」の弟子の一人に姜冏がいるとか。

弟子数千ってどういう実態だったのかなとも思うけど、鄭玄伝のここの箇所。

(鄭玄伝)

建安元年(196),自徐州還高密,道遇黄巾賊數萬人,見玄皆拜,相約不敢入縣境。

黄巾賊にも一目おかれる鄭玄ってことで、いまいちイメージは掴みづらい感じではあるけれど。
まあいまはこれはいいかなとか。

鄭玄と劉備と姜冏と

さらに続く。

後主伝の注。

『華陽国志』にいう。丞相諸葛亮の時代に、公は恩赦を行うのにけちであるといった者があった。
諸葛亮が答えていうのには、「世を治めるには大いなる徳義を以て行い、些細な恩恵を以て行わないものである。……
先帝も(劉備)また、わしは陳元方(陳紀)や鄭康成(鄭玄)との間を行き来していたとき、つねに教えを受け、治乱の道について知りつくしているといっておられたが、一度も恩赦についてお話になったことがなかった。……」

劉備はとりあえず鄭玄と往来があったらしい。
いつなんだろうって、思うけど、さっきの鄭玄伝の箇所の直前のこれをみると、陶謙(-194)が徐州牧な徐州にいるときな気はしたり。

會黄巾寇青部,乃避地徐州,徐州牧陶謙接以師友之禮

先主伝はこんな。

袁紹攻公孫瓚、先主与田楷東屯斉。
曹公徵徐州、徐州牧陶謙遣使告急於田楷、楷与先主倶救之
時先主自有兵千余人及幽州烏丸雜胡騎、又略得饑民数千人。

これが193年。

孫乾は鄭玄の弟子でこのころから劉備に仕官してたり。

可能性(主に創作的な)としては、姜冏がこの徐州時代の劉備と面識はあってもよさそうではあったり。

鄭玄と姜冏の繋がりがあれば発生する姜維と漢室の接点

そもそもこの辺のことは、姜維像を探るところから考えはじめたことだけど。

姜維伝のここをどう解釈するかとか。

亮與留府長史張裔、參軍蔣琬書曰:
「姜伯約忠勤時事,思慮精密,考其所有,永南、季常諸人不如也。其人,涼州上士也。」
又曰:「須先教中虎步兵五六千人。姜伯約甚敏於軍事,既有膽義,深解兵意。此人心存漢室而才兼於人,畢教軍事,當遣詣宮,覲見主上。」

諸葛亮の姜維評の「此人心存漢室」という箇所について。

ひとつとしては、蜀(漢)に下って仕えるようになった降人な以上はそういっておくことが無難だからそういったという可能性。

とはいえ、無難な程度だったらよくあることで、わざわざ手紙に書いたり特に強調する理由もないだろうから、諸葛亮にとってはこれはそれなりに重要な点であったのではないかとも。
(諸葛亮が姜維はそうだと信じていたとかは問題ではなく、そういう人物だと評したということが問題)

姜維は涼州の人、天水の人であって、その辺からはあまり漢室に心を寄せる理由は特に見いだせない。
とりあえず漢の時代に生まれたらそうなることもあるだろうな、くらいで。

ただ、もし仮に姜維父の姜冏が、ここで考えたような経歴をもっていたとしたら、姜維の漢室(漢王朝)への考え方の理解はかなり異なってくる。

諸葛亮の姜維評の「此人心存漢室」の漢室は、後漢ではなく劉備の漢の可能性?

てことで諸葛亮の姜維評の「此人心存漢室」の「漢室」が、後漢の「漢室」ではなくて劉備の「漢室」だとしたら、諸葛亮がわざわざ手紙で「此人心存漢室」と書くことも説得力が上がるのではないか。

姜維が蜀に降ったときに、諸葛亮に自己紹介あるいは売り込みとして、姜維父姜冏が鄭玄経由で劉備に会ったことがあり劉備にもこころを寄せていた――と語ったとすれば、諸葛亮がわざわざ「此人心存漢室」と手紙に書くことも、姜維の学問が特に残ってないわりには(それは死に方にもよるかもしれないけど)姜維伝の冒頭に「好鄭氏學」と陳寿が書いたのも、断片的な記述ではなくて、姜維像を考える上で繋がってきて意味を持ってくる。

まあなんでも物語や意味を求めるというのは、何でも顔に見たがるシミュラクラ現象のように人間的ではあるけれど、時にはうっとうしい傾向ではあったり。

とはいえ、断片的なだけで放置するのは、思考停止だとは思うし。

この仮定による姜冏像まとめ

ほぼ創作用設定メモになりつつあるけれど整理してみると。

姜冏
天水の人。170年(160-175くらい)生まれ。姜維の父。
若い頃(185年頃)、都に遊学。鄭玄の学問を好む。あるいは北海まで出向いて弟子?
189年頃、都から逃亡する鄭玄のもとへ他の数千の弟子とともに駆けつける。鄭玄の弟子。
193年頃、徐州に鄭玄と共に滞在。鄭玄と共に劉備に面識。
200年、鄭玄死去。劉備も不遇だしとりあえず天水に帰る。
202年、長男姜維誕生。後に郡の功曹。

こんな経歴になりそう。

この仮定による姜維像まとめ

上記のような父親の影響を受け、たぶん10歳くらいで父姜冏殺される。

父姜冏から受けた影響。上記の姜冏像から。

・鄭玄の学問を好むこと
・劉備(漢室)へ心を寄せること

さらに、姜維伝(注)と姜冏像をつきあわせれば有り得そうな姜冏から受けた影響。

・功名を好むこと

「功名を好むこと」は、姜冏が上記の経歴をもっていたとすれば姜冏はかなり活動的だし、群雄割拠の時代にそれなりに野心をもっていた可能性はありそう。

てことで、父姜冏の影響をかなり受けて作られた姜維、という姜維像もいいんじゃないかなとは思ったり。

三国志13で姜冏作ってみた、そのうち遊びたい

話は変わるけど、三国志13、なんだかんだで楽しい。
一応武将プレイだし、武将の生き様ってことで、姜冏を新武将として作ってみたり。

ちょうど12姜維の顔グラが特典でついてたからそれを利用して。

能力値系は効率の問題。

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2016-02-05_00003

まとめ

てことで、姜維像を考える上でいろいろ考察してみた姜冏像。

これだけの分量を、本当にどこにも書いてないか書いた場所が見つからないってどういうことなのって思うけど。

それにしても、物語というか人間や心自体、シミュラクラ現象的なものを素材として作られているような気はしたり。
歴史から物語を除外するのって、人間から骨とかを除外するものになりかねないような。

とりあえずおわり。





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