先日の記事に引きつづき蒋琬(蔣琬)のこと。
▼蒋琬伝の蒋琬北伐計画の流れ
蒋琬伝における蒋琬はこんな感じの流れで陳寿に扱われている様子。
●北伐(呉と掎角)のため漢中に駐屯(238年11月)
●上庸の方へ向かうため船を作る(?年)
●呉が協力しないことを恨みつつ病気になる。涪に駐留(243年10月)
●病死(246年)
結果的に、蒋琬自身は漢中に駐屯していただけだったけれど。
▼蒋琬時代の姜維
とりあえず姜維はこのころ蒋琬にしたがっていて、地味に北伐してはいたり。
●姜維年表(238-243年)
238 延熙元年(238),隨大将軍蔣琬住漢中。(姜維伝)
239 琬既遷大司馬(239)。以維為司馬,數率偏軍西入。(姜維伝)
240
241
242 五年春正月,監軍姜維督偏軍,自漢中還屯涪縣(後主伝)
243 六年(243),遷鎮西大将軍,領涼州刺史。(姜維伝)
姜維は243年涼州刺史になっているけれど、それについては蒋琬の意向だったぽい。
(蒋琬伝)
又昔偏軍人羌、郭淮破走、算其長短、以為事首、宜以姜維為涼州刺史。
若維征行、銜持河右、臣当帥軍為維鎮繼。どうか姜維を涼州刺史にご任命ください。
もしも姜維が征討に赴き、河右を制圧したならば、臣は軍を率いて姜維の後に続きおさえに当たりましょう。
あと気になるのは、姜維が涼州刺史になる(243年)前、また蒋琬が涪に行く(243年10月)前に、姜維が漢中を離れて涪に駐屯している(242年5月)こととか。
これも蒋琬の考えなのかなとか。
▼蒋琬と涪
その涪については蒋琬はこんな風に言ってたり。
(蒋琬伝)
又昔偏軍人羌、郭淮破走、算其長短、以為事首、宜以姜維為涼州刺史。
若維征行、銜持河右、臣当帥軍為維鎮繼。
今涪水陸四通、惟急是応。若東北有虞、赴之不難。現在涪は水陸両道によって四方に通じており、ここで緊急事態が発生すれば必ず呼応するものがあらわれるでしょう。もしもわが国の東北でめんどうな事件がおこっても、そこから駆けつけることはむずかしくありません。」
こんな感じで涪の地の利、姜維の涼州刺史隴西への北伐計画は蒋琬の上奏にある内容っぽい。
「若東北有虞、赴之不難」って言ってるから、漢中から退いても、東北(つまり上庸方面)のことを断念したわけでもなさそう。
▼まとめ
記事が長くなると自分で混乱するので、とりあえず今回は蒋琬と姜維関連の確認とか。
次は船(資治通鑑241年)と呉(呉主伝、朱然とか)のことを書きたいので忘れないこと。
おわり。