自分で書いたものを忘れたり、書いたと思ったら書いてなかったりとか色々。
費禕(費イ)仙人説についてどこかに書いた気もしたんだけど、探し出せないので改めてメモ。
▼費禕仙人説?
費禕のメモ。
CiNii 論文 – 費[イ]登仙考–黄鶴楼と万里橋の逸話をめぐって http://t.co/GycDrmTu2z #CiNii
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 10月 19
費禕登仙考 : 黄鶴楼と万里橋の逸話をめぐって
On the immortal FeiYi: folklore of “Huanghelou” and “Wanliqiao”
吉永 壮介
http://ci.nii.ac.jp/naid/120000801556
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032394-20071220-0212
この論文によると、黄鶴楼の仙人は費禕という説があったらしい。
てことでこの論文の「二 費禕と黄鶴楼」を見てみる。
▼なぜ費禕が黄鶴楼の仙人になったのか?
費禕がなんで仙人、という疑問について。
仙人に擬せられるようになった最大の原因は、やはり出身地が黄鶴楼と同じ江夏郡であり、土地の人々の誇るべき人物に数えられていたことに求められるだろう。
(「費禕登仙考:黄鶴楼と万里橋の逸話をめぐって」)
ということらしい。
▼費禕が黄鶴楼の仙人に擬せられた時期?
費禕がいつ頃から黄鶴楼の仙人になったかについて。
費禕と黄鶴楼を結びつけた最初の文献として広く知られるのは、唐・閻伯理『黄鶴楼記』である。永泰元年(765)、鄂州刺史の穆寧に随って黄鶴楼に遊んだ閻伯理は『黄鶴楼記』を著し、そのなかで『図経』を引いて費禕の伝承を記した。
州城の西南の隅に黄鶴楼有り。図経に云う、費禕登仙し、嘗て黄鶴に駕し返りて此に憩い、遂に以て楼に名づくと。
(「費禕登仙考:黄鶴楼と万里橋の逸話をめぐって」)
ということで、唐の時代のものが最初の文献らしい。
▼費禕仙人説の否定?
北宋に至ると、費禕を仙人として扱う者と、荒唐無稽であると批判する者との双方が見られるようになる。
(「費禕登仙考:黄鶴楼と万里橋の逸話をめぐって」)
てことで、どっちの説もあったらしいけど、明になると黄鶴楼の仙人は費禕以外の説のほうが有力になったらしい。
▼まとめ
とりあえず費禕仙人説の資料としてこの論文が行方不明になるとこまるのでメモ。
そして、これで諸葛亮、費禕、蔣琬が一応道教の神仙になっていることが確認できたので、蜀の四相の最後の一人董允はどうかなあといったところ。
それについてはまたそのうち整理したい。
おわり。