読書メモ。
最近、ちまちまKindle版の失われた時を求めて3(光文社、高遠弘美訳)を読んでたり。
今年の正月の夜は、ひたすら寝付くまでのベッドの中でノルポワさんが喋るのを聞きつづけていた感じ。
やっとノルポワさんがいなくなったところ。
で。
時間、小説――というのは失われた時を求めての重要なテーマの一つ。
とりあえずこの辺でみつけた時間と小説についての記述、マーカーをつけたついでにメモもしておきたかったり。
人生における「時間」もそれと似たようなものだ。
「失われた時を求めて3」(高遠弘美訳)
「それと似たようなもの」というのは、普段地球の回転を理論上は知っていても意識はしないもの、といったこと。
その直後。
過ぎゆく時間を感じさせるために小説家は、時計の針の動きを極端に速めて、読者に二分間で十年、二十年、三十年といった時を超えさせる。
「失われた時を求めて3」(高遠弘美訳)
時間はこの小説の最後の「見出された時」で語られる。
たとえばこんな感じ。
その少女ののびた背丈は、私が見ようとはしなかったあの時のへだたりを示しているのだった。無色で、とらえがたい時は、いわば、私がその時を目に見、手でさわることができるように、少女となって肉体化したのだった。時は彼女を一つのすぐれた作品として造形化したのだった。
「失われた時を求めて10」(ちくま、井上訳)
あるいはそのもう少し先。
結局、この時の観念は、私にとって究極の価値をもつものであった、それは人を駆りたてる突き棒のようなものであった、それは私にこう告げているのだった、私がこれまでの生涯にときどき感じたもの、ゲルマントのほうで、ヴィルパリジ夫人との馬車の散歩で、短い稲妻のひらめきのなかに感じたもの、人生を生きるに値すると私に考えさせたもの、そういうものに到達しようと私が望むならば、いまこそ着手すべきときである、と。
「失われた時を求めて10」(ちくま、井上訳)
てか「失われた時を求めて」の最後がこうだから、「時間」は重要。
タイトル自体にも含まれてるけど……。
そうした人間たちは、多くの年月のなかに投げこまれた巨人たちとして、あのように多くの日々がそこにはいってきて位置を占めたあのようにへだたったさまざまな時期に、同時にふれるのだから、際限もなくのびひろがった一つの場所を締めることになるのだ、──時のなかに。
完「失われた時を求めて10」(ちくま、井上訳)
てことでそれもあるから、そこに到るまでの時間に関する記述をなるべく意識していきたいという感じ。
メモ。
何時としての時間との差異?
あと、プルーストについては別ブログもあったけどどうしようかなあ。
それもこっちに吸収したいかも。
Proust memo
http://hane.ciao.jp/medamayaki/proust/
おわり。