Twitter、しばらくみてないと、その間の主な(?)ツイートを一番上に表示してくれる機能があるけれど。
それが結構便利で、今気になってる部分をツイートしてる人のがあった。
王沈は、蜀が滅びた際に呉が兵を出した折り、防御を設けてこれを撤退させた。王沈は江北諸軍事であり、駐屯地は新野である。彼の他に荊州諸軍事陳騫がおり、陳騫は襄陽にいた。陳騫ではなく王沈が対応したことは興味深い。これはつまり、呉の攻撃が江夏方面から来たことを示している。
— Jominian (@Jominian) 2015, 8月 27
これ。
で、自分のツイートめも。
蜀が滅びる頃の荊州都督は鍾毓だと思ってたけど、この辺あやふやなのでまた調べてみたいかんじ。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 8月 27
晋書分帝紀(維基文庫様より)「(甘露)四年(259)夏六月,分荊州置二都督,王基鎮新野,州泰鎮襄陽。使石苞都督揚州,陳騫都督豫州,鐘毓都督徐州,宋鈞監青州諸軍事。」陳騫、鍾毓どっちも荊州都督になる前。本人の伝とつきあわせると。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 8月 27
(陳騫伝)「轉都督豫州諸軍事、豫州刺史,持節、將軍如故。」ここが文帝紀で259年。「又轉都督江南諸軍事,徙都督荊州諸軍事、征南大將軍,封郯侯。」「武帝受禪…」265年
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 8月 27
まあいいや。鍾毓263年冬に死んでたから「會兄毓,以四年冬薨,會竟未知問」なんか、そのときまでは荊州都督だったのかなとか。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 8月 27
個人的にはそれが重要。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 8月 27
で、ツイートしたあとしばらく離席してたら、疑問にこたえてくれてたのでありがたかったり。
@medamayaki1 王基が荊州都督となった時、州泰が江南諸軍事となり、荊州は二都督による体制になりました。州泰と王基は景元二年に亡くなったので、王基の後任に鍾毓、州泰の後任に陳騫が選ばれます。その後、四年に鍾毓が亡くなり、陳騫が荊州諸軍事に格上げ、王沈が鍾毓後任となります
— Jominian (@Jominian) 2015, 8月 27
とりあえず忘れないようにメモ。
(旧ブログ2015.8.27記事移転)
[…] 鍾毓荊州都督関連メモは、この記事用メモなので参照のこと。 […]