2016.03.07
4315文字 / 読了時間:5.4分程度
三国志

徐質について書いた事典記事の補足とか。

→徐質-三国志事典

徐質は討蜀護軍であったことの意味

討蜀護軍(征蜀護軍)夏侯覇の情報から

討蜀護軍というと、まず最初に思い出されるのは夏侯覇だったり。
で、夏侯覇は「討蜀護軍」と「征蜀護軍」いずれの表記もあるので、このふたつは同じものを指すんじゃないかと推測。

その討蜀護軍(征蜀護軍)夏侯覇は249年に蜀に亡命しているので、徐質が姜維と戦った(そして殺された)年が254年なので、その間5年。

確率的には夏侯覇の後任の討蜀護軍(征蜀護軍)が徐質なのではないかと思ったり。

また、この官職は夏侯覇に関連して「正始年間にいたって、夏侯儒に代わって征蜀護軍となり、征西将軍の配下に属した」とあるので、「討蜀護軍」あるいは「征蜀護軍」は征西将軍に属するっぽい。

討蜀護軍(征蜀護軍)の徐質以外の顔ぶれ

調べてみると(「蜀護軍」で三国志原文を検索しただけ)、徐質以外の討蜀護軍(征蜀護軍)には、曹真、夏侯儒、夏侯覇などの名前があったり。

曹真、夏侯覇(夏侯淵の子)は、魏の皇族。
夏侯儒は詳細不明だけれど、魏の皇族の夏侯氏である確率の方が高そう。

もともと涼州(隴西)方面は、夏侯淵、曹真等がかなり関わっていて、夏侯玄(夏侯尚の子)も征西将軍だったり、結構魏の皇族が配置されている印象は強かったり。
当然、それ以外も多いけれど。

ただ、その印象に加えてわかっている討蜀護軍(征蜀護軍)の顔ぶれがいずれも皇族なこと(全てであるのは偶々かもしれないにしてもある程度の重要度等は推測できるのではないか)の意味を考えてみると、徐質もまた彼らと同列に並んで遜色のない人物であったのではないか(出自かもしれないし能力かもしれない。陳泰がこの時率いたと名前があげられたのはこの徐質と太守だった鄧艾だった)――というふうにも推測できたり。

てことでこれで多少、徐質のイメージを変更(ゲームの顔グラ等からの)を変更したほうがいい可能性もあるのかもと思いはじめた感じ……。

徐質にふさわしそうな一族を考えてあげる試み(if)

ここからは特に根拠はない、可能性としてありえなくもないだろうという話。

涼州(隴西)方面で徐氏といえば……徐邈

涼州関連にゆかりがある徐氏といえば、徐邈じゃないかな。

徐邈について

徐邈はこんな人。

(徐邈伝)

徐邈字景山、燕国薊人也。太祖平河朔、召為丞相軍謀掾、試守奉高令、入為東曹議令史。魏国初建、為尚書郎。時科禁酒、而邈私飲至於沈醉。校事趙達問以曹事、邈曰、「中聖人。」達白之太祖、太祖甚怒。度遼将軍鮮于輔進曰、「平日醉客謂酒清者為聖人、濁者為賢人、邈性脩慎、偶醉言耳。」竟坐得免刑。后領隴西太守、転為南安。文帝踐阼、歴譙相、平陽、安平太守、潁川典農中郎将、所在著称、賜爵関内侯。車駕幸許昌、問邈曰、「頗復中聖人不?」邈對曰、「昔子反斃於谷陽、御叔罰於飲酒、臣嗜同二子、不能自懲、時復中之。然宿瘤以丑見伝、而臣以醉見識。」帝大笑、顧左右曰、「名不虛立。」遷撫軍大将軍軍師。
明帝以涼州絶遠、南接蜀寇、以邈為涼州刺史、使持節領護羌校尉。至、值諸葛亮出祁山、隴右三郡反、邈輒遣参軍及金城太守等撃南安賊、破之。河右少雨、常苦乏谷、邈上脩武威、酒泉鹽池以収虜谷、又広開水田、募貧民佃之、家家豐足、倉庫盈溢。乃支度州界軍用之余、以市金帛犬馬、通供中国之費。以漸収斂民間私仗、藏之府庫。然後率以仁義、立学明訓、禁厚葬、断淫祀、進善黜悪、風化大行、百姓帰心焉。西域流通、荒戎入貢、皆邈勛也。討叛羌柯吾有功、封都亭侯、邑三百戸、加建威将車。邈与羌、胡従事、不問小過;若犯大罪、先告部帥、使知、応死者乃斬以徇、是以信服畏威。賞賜皆散与将士、無入家者、妻子衣食不充;天子聞而嘉之、隨時供給其家。彈邪繩枉、州界粛清。
正始元年、還為大司農。遷為司隸校尉、百寮敬憚之。公事去官。後為光祿大夫、数歳即拜司空、邈嘆曰、「三公論道之官、無其人則缺、豈可以老病忝之哉?」遂固辞不受。嘉平元年、年七十八、以大夫薨於家、用公礼葬、諡曰穆侯。子武嗣。六年、朝廷追思清節之士、詔曰、「夫顯賢表徳、聖王所重;挙善而教、仲尼所美。故司空徐邈、征東将軍胡質、衛尉田豫皆服職前朝、歴事四世、出統戎馬、入賛庶政、忠清在公、憂国忘私、不営產業、身沒之後、家無余財、朕甚嘉之。其賜邈等家谷二千斛、銭三十万、布告天下。」邈同郡韓観曼游、有鑒識器幹、与邈斉名、而在孫礼、盧毓先、為豫州刺史、甚有治功、卒官。魏名臣奏載黄門侍郎杜恕表、称、「韓観、王昶、信有兼才、高官重任、不但三州。」盧欽著書、称邈曰、「徐公志高行絜、才博気猛。其施之也、高而不狷、絜而不介、博而守約、猛而能寬。聖人以清為難、而徐公之所易也。」或問欽、「徐公当武帝之時、人以為通、自在涼州及還京師、人以為介、何也?」欽答曰;「往者毛孝先、崔季珪等用事、貴清素之士、於時皆變易車服以求名高、而徐公不改其常、故人以為通。比来天下奢靡、転相仿效、而徐公雅尚自若、不与俗同、故前日之通、乃今日之介也。是世人之無常、而徐公之有常也。」

徐邈は字を景山といい、燕国薊県の人である。……

明帝は涼州が絶遠の地で、南方蜀と接していることから、徐邈を涼州刺史に任命し、使持節として護羌校尉を兼務させた。
着任すると、諸葛亮が祁山に出陣し、隴右の三郡が反乱するという事態に遭遇した。
徐邈はさっそく参軍と金城太守らを派遣して南安の賊軍を攻撃させ、これをうち破った。

……
河右は雨が少なく、つねに穀物の欠乏に苦しんでいた。徐邈は武威と酒泉の塩池を修理して蛮地で穀物を収穫するようにと上奏し、また広く水田を開き、貧民を募集して田作させた。
〔その結果〕家々すべて充足し、倉庫は満ち溢れた。
そこで州境で使う軍用米の残りを支出して、金・絹・犬・馬を飼い、中国の用途に提供した。
民間に私蔵している武器をだんだんと没収してゆき、役所の倉庫にしまいこんだ。
そのあとで仁義によって導き、学校を建て、訓戒を明示し、厚葬を禁止し、淫祠を絶滅し、善を進めて悪を退けたため、教化は大いにゆきわたり、人民は心を寄せた。
西域との通行が開き、遠方の蛮族が入貢したのは、すべて徐邈の勲功である。
刃向かう羌族の柯吾を討伐して功績を立て、都亭侯にとりたてられ、領邑三百戸を与えられ、建威将軍の称号を加えられた。

……
徐バクは羌族に対して事件を処理する場合、小さな過失は不問に処し、もし大罪を犯したときには、まず部落の指導者に告げて承知させ、死刑に処すべき者であってはじめて首を斬ってその旨を充分に告知せしめた。
そのために信頼して服従し、威光を恐れた。
賞賜はすべて将兵に分け与え、家に入れることはなかったから、妻子は衣食にもこと欠いた。
天子は伝え聞いてそれを嘉し、随時彼の家に支給した。
悪事を指弾し、曲がった事をとりしまり、州域は粛然とした。

つまり、徐邈は涼州刺史だっただけでなく、涼州でかなりこの土地の異民族からも信頼されていたりとか。

唐突に蜀に亡命していった夏侯覇の後任に適任な人物像?

夏侯覇は亡命したので、魏にとっては予定外に夏侯覇の前職である討蜀護軍(征蜀護軍)が空いたことになる。

前職が対蜀最前線である討蜀護軍(征蜀護軍)の夏侯覇が蜀に亡命したことから、後任の討蜀護軍(征蜀護軍)の人選は涼州の防衛のためにかなり重要だったのではないか。

そういう状況のなかで、おそらく後任として任じられたのが徐質である。

そうなると、徐質は重要なポジションである討蜀護軍(征蜀護軍)にふさわしいという評価を特に得て、討蜀護軍(征蜀護軍)に任命されたのではないか。

つまり、徐質にはそう判断されるだけのそれなりの根拠をもっていたということになる。

能力か、出自か。

能力だった可能性も否定はできない。
このとき一緒にいた鄧艾と同じように、このとき殺されなければもっと活躍したかもしれない。

一方で、残された事績が姜維に殺されたことだけなところから(翌年、大敗した王経ですら殺されてはいない、とも一応言えなくはないし。また王経はこの時雍州刺史)、能力は高くはなかったと考えることもできる。

徐質が徐邈の一族だったとしたら?

で、この仮説になるわけで。

涼州で人望のある徐邈の一族は、討蜀護軍(征蜀護軍)に何かと有利なのではないか――という理由で徐質が討蜀護軍(征蜀護軍)に選ばれたという仮説も、わりと有望なんじゃないかなとか。

徐邈は249年に死んでいるけれども、ちょうど偶々この徐質が戦死した254年に、生前の清廉さが評価されて、いろいろ支給されるということがあったり(徐邈、胡質、田豫について)。(六年、朝廷追思清節之士、詔曰、「夫顯賢表徳、聖王所重;挙善而教、仲尼所美。故司空徐邈、征東将軍胡質、衛尉田豫皆服職前朝、歴事四世、出統戎馬、入賛庶政、忠清在公、憂国忘私、不営產業、身沒之後、家無余財、朕甚嘉之。其賜邈等家谷二千斛、銭三十万、布告天下。」)

徐邈だけではないけれども、徐質が戦死した同じ年(この年のいつかは不明)なのはやっぱり気になったり。

もとから清貧だった徐邈の一族は貧しくて、さらにその一族である徐質も戦死したこともあって、困窮しているであろう徐邈(と徐質)の一族を、なんとか徐質にからめずに(徐質は負けて殺されているから)助けたいと考えたために、このような詔が出された、というふうにも考えられなくはないのではないか、とか。

徐質が徐邈の一族だった説

というわけで、徐質が徐邈の一族だった説もそれなりに可能性はなくもないんじゃないかと思ったり。

少なくとも徐質については不明なことだらけな以上、徐質を掘り下げていくためにはどのみち推測していくしかないんだし。

てことで、気が向いたらこの説を自分でもたまには採用してみたいなとは思ったり。

まとめ

てことで、徐質の出自についての仮説を思いついたので記事書いてみたり。

事典に追記するか迷ったけれど、事典に書くのも事典の方針的にこっちの通常の記事と見分けがつかなくなって嫌なので、こっちに。

徐質はゲームでは山賊っぽい見た目をしているけれど、もしかするとそういうイメージの人物でなかった可能性の方が高いのかなとは思ったり。

三国志13徐質

ていうか、この時期の魏の人がこんな見た目なわけはどのみちないだろうけど……。

まあゲームは、リアリティを追求して証明写真並な個性しかなくなったら絵としてつまらないので、これでもいいけれど。
山賊っぽい人ってことで多少印象には残るし。

とりあえず終わり。


事典についてメモ。

関連記事、のリンクはつけようかな。
検索結果やタグでもいいけれど、関連の度合いが強ければ単独で。





三国志





Comment


Memo.Medamayaki

三国志他歴史、小説、ゲーム等に関するメモ用ブログ。

TEMPLATE:Ateh's theme

×

Status


苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:

Setting

苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身地:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:





× 
×

Recent Posts

×

Custom Menu