歴史と小説が趣味なので、このテーマについては興味深かったり。
ミラン・クンデラ『小説の精神』「第2部 小説技法についての対談」より。
クンデラによる歴史を扱う小説の二つの区分?
歴史と小説、あるいは歴史小説という分野を考えるのに、役に立つ分析。
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しかし、次のふたつのことを混同してはなりません。つまり一方には、人間存在の歴史的次元を考察する小説があり、他方には、ある歴史的状況の説明、ある一定の時期のある社会の記述である小説、つまり、小説仕立ての歴史記述といった小説があるのです。
……
これらはみな、小説のものではない認識を小説の言語に翻訳した通俗小説です。
つまり、クンデラは、歴史を扱う小説には二つの種類があると分析している。
「人間存在の歴史的次元を考察する小説」
「小説仕立ての歴史記述といった小説」
「人間存在の歴史的次元を考察する小説」について
クンデラが意識するものはこちらの「人間存在の歴史的次元を考察する小説」の方。
次に、その理由についてクンデラはこう語っている。
さて、くどいようですがもういちど、小説のただひとつの存在理由は小説のみが語りうることである、と申しましょう。
クンデラが目指している小説はこのようなものである以上、彼が彼の小説で歴史を扱うときには、「人間存在の歴史的次元を考察する小説」でなければならないということになる。
クンデラはかなり数字に拘りがある(それについても語っている)人だけれど、ここでも4つの彼の歴史に関する原則をあげているので、それも触れておくことに。
第一原則――「あらゆる歴史的状況を私は最大限簡素に扱う」
第二原則――「歴史的状況にもいろいろあるが、私の登場人物たちにとって啓示的な実存状況を生みだすものだけをとりあげる。」
第三原則――「歴史記述は、人間の歴史ではなく社会の歴史を描きます」
第四原則――「歴史的状況は、小説のある人物にたいして新しい実存的状況をつくりだすはずですが、それだけでなく、「歴史」自体が実存的状況つぃて理解され分析されなければならない。」※クンデラは第四原則について「最も徹底している」といっている
第四原則について、さらに詳しく説明していて、こんな風にもいっていたり。
ここでの歴史的状況は、人間のさまざまの状況がおりなされるその後ろにある背景、舞台セットではない。歴史的状況そのものがひとつの人間の状況、拡大されたひとつの実存的状況なのです。
それはそうと、クンデラの原則による歴史を扱う小説は、あくまで「小説」とは何かを突き詰めたい人向けのものとなるだろう。
いわゆる歴史趣味がメインな人には、物足りないものとなりそうではある。
次は、クンデラの方針である「人間存在の歴史的次元を考察する小説」と対立する「小説仕立ての歴史記述といった小説」について見てみる。
「小説仕立ての歴史記述といった小説」について
それにしても、クンデラ自身の立場は正反対とはいえ、クンデラによるこの「小説仕立ての歴史記述といった小説」に関する分析は的を射ているのではないか。
「歴史小説」について、これほど腑に落ちる説明は他にあるのか不明だったり。個人的に、
他方には、ある歴史的状況の説明、ある一定の時期のある社会の記述である小説、つまり、小説仕立ての歴史記述といった小説があるのです。
……
これらはみな、小説のものではない認識を小説の言語に翻訳した通俗小説です。
「小説仕立ての歴史記述といった小説」という表現は、すごくぴったりしてると思ったり。
ということで、歴史趣味の人にとっては、前者のような歴史成分を切り詰めた小説よりはこのような「小説仕立ての歴史記述といった小説」の方がよほど好みにあいそうではあったり。
彼らは(自分については不問)あくまで「歴史記述」が読みたいわけで、たまたま「小説」の形式になっていてもそれが「歴史記述」として彼らの興味を満たす水準のものであれば受け入れる――それだけのことである。
歴史小説について、雑感
ここからは、自分の雑感とか。
歴史を扱う小説には二つの方向性がある。
これは漠然とではあっても、誰でも感じていることではあるに違いない。
日本で「歴史小説」というときには、クンデラの言う「小説仕立ての歴史記述といった小説」である。
「歴史小説」はクンデラのいうように「通俗小説」に区分される。
通俗小説とかはともかく、この「歴史小説」を考える上で忘れてならないのは、「歴史小説」とはあくまで「小説仕立ての歴史記述」であるということではないだろうか。
つまり「歴史小説」とは「歴史記述」として読むに耐えるテキストでなければならない――といいかえることができるのではないだろうか。
で。
とりあえず、歴史を扱う小説を自分で書こうとする場合、自分の作品の性格は把握しておかないと、混乱するだろうなとは思ったり。
おわり。