2016.07.04
9026文字 / 読了時間:11.3分程度

衛瓘(衛カン)、字は伯玉。河東安邑の人。
220-291。
父は衛覬(えいき)。衛覬は「三国志」に衛覬伝がある。

魏、晋の政治家。書家としても有名。

「晋書」に衛瓘伝がある。

「晋書」衛瓘伝(衛瓘伝)

以下、「晋書」衛瓘伝

●衛瓘について

衛瓘字伯玉,河東安邑人也。高祖暠,漢明帝時,以儒學自代郡徴,至河東安邑卒,因賜所亡地而葬之,子孫遂家焉。父覬,魏尚書。瓘年十歲喪父,至孝過人。性貞靜有名理,以明識清允稱。襲父爵閿鄉侯。

弱冠為魏尚書郎。時魏法嚴苛,母陳氏憂之,瓘自請得徙為通事郎,轉中書郎。時權臣專政,瓘優遊其間,無所親疏,甚為傅嘏所重,謂之甯武子。在位十年,以任職稱,累遷散騎常侍。陳留王即位,拜侍中,持節慰勞河北。以定議功,增邑戶。數歲轉廷尉卿。瓘明法理,每至聽訟,小大以情。

衛瓘は字を伯玉といい、河東郡安邑の人である。高祖の衛暠は、漢の明帝の時、儒学によって代郡から召され、河東郡安邑に至ったところで卒した。亡くなって埋葬した土地を賜ったことによって、子孫は結局ここに家をなした。父の衛覬は、魏の尚書となった。衛瓘が十歳の時に父を亡くしたが、その孝行は他の人より優れていた。性質は貞靜(節義を守って動じなく物静か)であり、名理(すぐれたことわり)を有しており、明識清允であると称えられた。父の爵をついで閿鄉侯となった。

弱冠にして、魏の尚書郎となった。その頃、魏の法律は厳しく苛酷であったので、母の陳氏はこれを憂いていた。衛瓘は、自ら移ることを請願して通事郎となり、中書郎となった。当時の権臣は政治を独占していたが、衛瓘はうまくその間を渡り歩いた。特に親しかったり疎遠にした人物もなかったが、非常に傅カが評価して、甯武子のようだと言った。その地位に十年在って職務をつとめおおせたことによって、散騎常侍になった。陳留王が即位して、侍従となり、節を持って河北を慰労した。考えをめぐらせて治めた功績によって邑戸を加増された。数年後、廷尉卿となった。衛瓘は法理に詳しく、訴訟をきくごとに、小さいことでも大きいことでも情のある判断をした。

●蜀滅亡関連(鄧艾)

鄧艾、鍾會之伐蜀也,瓘以本官持節監艾、會軍事,行鎮西軍司,給兵千人。蜀既平,艾輒承制封拜。

會陰懷異志,因艾專擅,密與瓘俱奏其狀。詔使檻車徴之,會遣瓘先收艾。會以瓘兵少,欲令艾殺瓘,因加艾罪。瓘知欲危己,然不可得而距,乃夜至成都,檄艾所統諸将,稱詔收艾,其餘一無所問。若來赴官軍,爵賞如先;敢有不出,誅及三族。比至雞鳴,悉來赴瓘,唯艾帳內在焉。平旦開門,瓘乘使者車,徑入至成都殿前。艾臥未起,父子俱被執。艾諸将圖欲劫艾,整仗趣瓘營。瓘輕出迎之,偽作表草,将申明艾事,諸将信之而止。

鄧艾、鍾会が蜀を伐つとき、衛瓘は、本の官職のまま節を持って、鄧艾と鍾会の軍事を監督した。行鎮西軍司として、兵士千人を給わった。蜀が平定された後、鄧艾はすぐに制度を承認し、諸侯に封じ、官に任じた。
鍾会はひっそりと反逆を考え、鄧艾の専断を理由に、衛瓘とともにその様子をひそかに奏上した。詔によって鄧艾を檻車で送らせるため、鍾会は鄧艾を捕らえさせようと、先に衛瓘を派遣した。鍾会は衛瓘の兵士が少ないので、鄧艾に衛瓘を殺させて、それを理由に鄧艾を罪に落とそうと考えた。衛瓘は自分の身の上が危うくなっていることを知ったけれども、さからう(ふせぐ)ことはできなかった。
夜になって成都に到着し、檄を鄧艾配下の諸将に発して、「詔によって鄧艾を捕らえるが、それ以外は一切不問にする。もし官軍に来るならば爵賞はもとのままであるが、もし来ないのならば、その罪は三族に及ぶであろう」といった。鶏が鳴く頃、ことごとく衛瓘のもとへ来て、ただ鄧艾だけが帳の内にいた。
夜明けに門を開けて、衛瓘は使者の車に乗って、たやすく成都の宮殿の前に入った。鄧艾はまだ眠っていて起きておらず、父子ともに捕らえられた。鄧艾の部下は奪い取ろうと計画し、兵器をそろえて衛瓘の陣営にむかった。衛瓘は素早く出てこれを迎え、偽って、これから明らかに鄧艾の事を申告するという表草を作った。諸将はこれを信じて中止した。

●蜀滅亡関連(鍾会)

俄而會至,乃悉請諸将胡烈等,因執之,囚益州解舍,遂發兵反。於是士卒思歸,內外騷動,人情憂懼。會留瓘謀議,乃書版云「欲殺胡烈等」,舉以示瓘,瓘不許,因相疑貳。
瓘如廁,見胡烈故給使,使宣語三軍,言會反。會逼瓘定議,經宿不眠,各橫刀膝上。在外諸軍已潛欲攻會,瓘既不出,未敢先發。會使瓘慰勞諸軍。瓘心欲去,且堅其意,曰:「卿三軍主,宜自行。」會曰:「卿監司,且先行,吾當後出。」瓘便下殿。會悔遣之,使呼瓘。瓘辭眩疾動,詐仆地。比出閤,數十信追之。瓘至外解,服鹽湯,大吐。瓘素羸,便似困篤。會遣所親人及醫視之,皆言不起,會由是無所憚。及暮,門閉,瓘作檄宣告諸軍。諸軍並已唱義,陵旦共攻會。

會率左右距戰,諸将擊敗之,唯帳下數百人隨會繞殿而走,盡殺之。瓘於是部分諸将,羣情肅然。

にわかに鍾会が来て、諸将胡烈等を呼び寄せて彼らを捕らえて益州の役所に閉じ込め、ついに反乱を起こした。このとき、将兵たちは故郷に帰りたいと思って内外で騒動をおこし、人々は心配した。鍾会は衛瓘を謀議に引き留めて、版に「胡烈等を殺すつもりだ」ということを書いて衛瓘に掲げて示した。衛瓘は認めなかったので、二人は互いに疑った。衛瓘は厠に行くと、胡烈の昔からの給仕を見つけたので、三軍に鍾会が謀反を起こしたと云うことをあきらかに語らせた。鍾会は衛瓘に定議を迫り、宿舎に不眠で過ごして、それぞれ刀を膝の上に横たえていた。外にいる諸軍はすでにひそかに鍾会を攻めようとしていたが、衛瓘が出ていないのでまだことを起こさなかった。鍾会は衛瓘に諸軍を慰労させた。衛瓘は立ち去ろうと考えて、決意を固めて言った。「あなたは三軍の主なのだから、自ら行くべきだ。」鍾会は言った「あなたは監司なのだから、先にゆくべきだろう、私は後で出よう。」衛瓘はそのまま退出した。鍾会は悔やんで、衛瓘を呼ばせた。衛瓘は、眩暈の病が起きたと訴えて、いつわって地に倒れた。部屋を出た頃、数十人の使者が追った。衛瓘は外に出ると治って、塩湯を飲んで大いに吐いた。衛瓘はもともと体が弱かったので、病気で苦しんでいる真似をするのはたやすいことだった。鍾会は親しい人物と医師を遣わせて見させたところ皆治らないと言ったので鍾会はおそれるところはなくなった。夕暮になって門を閉じ、衛瓘は檄を作って諸軍に宣告した。諸軍は並んで義を唱え、明け方に共に鍾会を攻めた。

鍾会は左右の者を率いて戦ったが、諸将はこれを撃ち破り、旗下の数百人だけが鍾会に従って宮殿をまわって逃げたが、ことごとくこれを殺した。衛瓘はここにおいて諸将に規律をはっきりさせたのでおおくの心は粛然とした。

※「欲殺胡烈等」
「胡烈らを殺すつもりだ」ではなく「胡烈らを殺すことを欲する→胡烈らを殺せ」も可能?

●蜀滅亡関連(田続)
鄧艾本營将士複追破檻車出艾,還向成都。瓘自以與會共陷艾,懼為變,又欲專誅會之功,乃遣護軍田續至綿竹,夜襲艾於三造亭,斬艾及其子忠。初,艾之入江由也,以續不進,将斬之,既而赦焉。
及瓘遣續,謂之曰:「可以報江由之辱矣。」

鄧艾の本営の将士は檻車を追って破って鄧艾を出し、成都に向かって帰った。衛瓘は自分が鍾会と共に鄧艾を陥れたので、争いになることを心配した。また鍾会を討伐した功績を独占したいと考え、護軍の田續を綿竹に遣わせて、三造亭で鄧艾を夜襲させ、鄧艾とその子、鄧忠を斬らせた。以前に鄧艾は、江由来に入ったとき田續が進まなかったので斬ろうとしたが結局許した。
衛瓘は田續を派遣するときに言った。「江由の屈辱に報いるべし。」

●蜀滅亡関連(功績)
事平,朝議封瓘。瓘以克蜀之功,羣帥之力,二将跋扈,自取滅亡,雖運智謀,而無搴旗之效,固讓不受。除使持節、都督關中諸軍事、鎮西将軍,尋遷都督徐州諸軍事、鎮東将軍,增封菑陽侯,以餘爵封弟實開陽亭侯。

反乱が平定されて、朝廷は衛瓘を封じた。衛瓘は蜀討伐の功績、大軍をひきいた手柄(功労、はたらき)、また二人の将が跋扈してみずから滅亡に向かって知謀をめぐらせたけれども、旗をかかげさせなかった手柄をたてたけれども、固く謙譲して受けなかった。使持節、都督関中諸軍事、鎮西将軍となり、ついで都督徐州諸軍事、鎮東将軍となり、菑陽侯に増封され、余爵で弟の衛實を開陽亭侯に封じた。

●晋

泰始初,轉征東将軍,進爵為公,都督青州諸軍事、青州刺史,加征東大将軍、青州牧。所在皆有政績。除征北大将軍、都督幽州諸軍事、幽州刺史、護烏桓校尉。至鎮,表立平州,後兼督之。
于時幽并東有務桓,西有力微,並為邊害。瓘離間二虜,遂致嫌隙,於是務桓降而力微以憂死。朝廷嘉其功,賜一子亭侯。瓘乞以封弟,未受命而卒,子密受封為亭侯。瓘六男無爵,悉讓二弟,遠近稱之。累求入朝,既至,武帝善遇之,俄使旋鎮。

泰始の初め、征東将軍となり、爵を進めて公となった。都督青州諸軍事、青州刺史となり、さらに征東大将軍、青州牧を加えられた。それらの官職にあってみな政治的功績があった。征北大将軍、都督幽州諸軍事、幽州刺史、護烏桓校尉となった。鎮まで来て、平州をおおやけに立て、後にここの統治も兼ねた。
このころ幽州、并州の東に務桓、西に力微がいて、ともに辺境に害をなしていた。衛瓘は二人を離間して、やがてたがいに疑いあい、険悪になった。こうして務桓は降り、力微は憂いて死んだ。朝廷はその功績を評価して、一人の子に亭侯を賜った。衛瓘は弟を封じてくれるように頼んだけれども命を受ける前に卒したので、子の衛密が封ぜられて亭侯となった。衛瓘は、六人の子は無爵で、すべて二人の弟に譲ったので、あちこちで称賛された。何度も朝廷に帰ることを求めて到着すると、武帝(司馬炎)はよい待遇を与えてからすぐに鎮に帰らせた。


務桓──人名(匈奴の劉務桓とは別人)
力微──人名(拓跋力微)

●晋

咸寧初,徴拜尚書令,加侍中。性嚴整,以法御下,視尚書若參佐,尚書郎若掾屬。
瓘學問深博,明習文藝,與尚書郎敦煌索靖俱善草書,時人號為「一台二妙」。漢末張芝亦善草書,論者謂瓘得伯英筋,靖得伯英肉。

咸寧の初め、召されて尚書令となり、侍中を加えられた。性質は厳整で、法をもって下々を御し、尚書をみることは参佐のごとく、尚書郎をみること掾屬のごとくであった。
衛瓘の学問は深博で、文芸を明らかに習得し、尚書郎の敦煌の索靖とともに衛瓘は草書に巧みであったので当時の人は「一台二妙」といった。漢末の張芝もまた草書がうまかった。論者は衛瓘は伯英の筋を得、索靖は伯英の肉を得ていると言った。

●晋(司空)

太康初,遷司空,侍中、令如故。為政清簡,甚得朝野聲譽。武帝敕瓘第四子宣尚繁昌公主。瓘自以諸生之胄,婚對微素,抗表固辭,不許。又領太子少傅,加千兵百騎鼓吹之府。以日蝕,瓘與太尉汝南王亮、司徒魏舒俱遜位,帝不聽。

太康の初め、司空となり、侍中はもとの如くにさせた。政治は清簡であり、非常に朝廷の間でも庶民の間でも評判が高かった。
武帝は衛瓘の第四子の衛宣に繁昌公主をめとらせると命じた。衛瓘は自分が儒生の血筋であって、婚姻するのは身分が低い家が釣り合う、といって拒む意見を述べたが許されなかった。また太子少傅となり、千兵百騎と鼓吹之府を加えられた。日蝕を理由に衛瓘と大尉汝南王司馬亮と司徒魏舒は地位から退こうとしたが、帝はきかなかった。

●晋

瓘以魏立九品,是權時之制,非經通之道,宜復古鄉舉裏選。與太尉亮等上疏曰:「昔聖王崇賢,舉善而教,用使朝廷德讓,野無邪行。誠以閭伍之政,足以相檢,詢事考言,必得其善,人知名不可虛求,故還修其身。是以崇賢而俗益穆,黜惡而行彌篤。斯則鄉舉裏選者,先王之令典也。自茲以降,此法陵遲。魏氏承顛覆之運,起喪亂之後,人士流移,考詳無地,故立九品之制,粗且為一時選用之本耳。其始造也,鄉邑清議,不拘爵位,褒貶所加,足為勸勵,猶有鄉論餘風。中間漸染,遂計資定品,使天下觀望,唯以居位為貴,人棄德而忽道業,爭多少於錐刀之末,傷損風俗,其弊不細。今九域同規,大化方始,臣等以為宜皆蕩除末法,一擬古制,以土斷定,自公卿以下,皆以所居為正,無複懸客遠屬異土者。如此,則同鄉鄰伍,皆為邑里,郡縣之宰,即以居長,盡除中正九品之制,使舉善進才,各由鄉論。然則下敬其上,人安其教,俗與政俱清,化與法並濟。人知善否之教,不在交遊,即華競自息,各求於己矣。今除九品,則宜準古制,使朝臣共相舉任,於出才之路既博,且可以厲進賢之公心,覈在位之明闇,誠令典也。」武帝善之,而卒不能改。

衛瓘は、魏が立てた九品官人法とは、権時の制(暫時的な制度)であり経通の道(恒久的な道)ではないとし、よろしく郷挙里選を復古するべきとした。大尉の司馬亮とともに上疏して言った。

「……(略)……昔の聖王は賢者を尊び、善を讃えて教え、もって朝廷を有徳で謙譲にさせたので、野に悪事はなかった。まことに、閭伍の政(閭〈二十五家の村里〉と伍〈五軒の組〉に基づく政治の制度/周)をもって、あいとりしまり、事を相談し、言葉を考えるのに足り、必ずその善を得て、人は名を知るので、虚しく求めることはない、ゆえにかえってその身をおさめる。このように賢者を尊ぶので庶民はますます喜び、悪を退けてますます人情が篤くなるようになる。これがすなわち郷挙里選で、昔の聖王の令典である。
その後時代が降って、この法は次第に衰えていった。
魏は転覆の運(覆された運命)を引き継いで、争乱の後に起こり、人士は流移して、くわしく調べる土地もなく、そのため九品官人法の制度を立てたが、それは大まかになものでかつ一時的な人材登用法という始まりだった。
そのはじめの成り立ちは郷邑の清議であり、爵位に拘わらず褒貶を加え、つとめはげますに足り、まだ郷論の遺風があった。
中頃になると資産をはかって品を定め、天下の人を、ただ位にいれば貴いと見なさせた(天下ではみなすようになった)。人は徳を棄てて道業をおろそかにし、錐の先のような僅かな利益の多少を争い、風俗を傷め、その弊害は少なくなかった。……」

武帝はこれを評価したが、ついに改めることはなかった。

●晋(皇太子)

惠帝之為太子也,朝臣咸謂純質,不能親政事。瓘每欲陳啟廢之,而未敢發。後會宴陵雲臺,瓘托醉,因跪帝牀前曰:「臣欲有所啓。」帝曰:「公所言何耶?」瓘欲言而止者三,因以手撫牀曰:「此座可惜!」帝意乃悟,因謬曰:「公真大醉耶?」瓘於此不復有言。賈后由是怨瓘。

恵帝が皇太子となると、朝臣はみな愚かな性質で自ら政治を行うことはできないと言った。衛瓘は廃するよう上奏したいと考えたが、なかなか実行できないでいた。後に陵雲台の宴会で、衛瓘は酔いに托して帝の席の前に跪いて言った。「臣はもうしあげたいことがございます。」帝は言った。「言いたいことととは何か?」衛瓘は言おうとして止めること三度、手で席をなでて言った。「この座は惜しむべきです。」帝は意味を悟ったが、ごまかして言った。「そなたは酔いすぎたか?」衛瓘はこれ以上は言わなかった。賈皇后はこれによって衛瓘を恨んだ。

●晋(公主)

宣尚公主,數有酒色之過。楊駿素與瓘不平,駿複欲自專權重,宣若離婚,瓘必遜位,於是遂與黄門等毀之,諷帝奪宣公主。瓘慚懼,告老遜位。乃下詔曰:「司空瓘年未致仕,而遜讓歷年,欲及神志未衰,以果本情,至真之風,實感吾心。今聽其所執,進位太保,以公就第。給親兵百人,置長史、司馬、從事中郎掾屬;及大車、官騎、麾蓋、鼓吹諸威儀,一如舊典。給廚田十頃、園五十畝、錢百萬、絹五百匹;床帳簟褥,主者務令優備,以稱吾崇賢之意焉。」有司又奏收宣付廷尉,免瓘位,詔不許。帝後知黄門虛構,欲還複主,而宣疾亡。

衛宣(衛瓘の子)は公主をめとったが、たびたび酒色の過ちがあった。楊駿は衛瓘と仲が悪かったので、楊駿はまた自分で権力を独占しようと欲して、衛宣がもし離婚すれば、衛瓘は必ず退くだろうと考え、ついに宦官らとともに謗り、帝は衛宣から公主を奪った。衛瓘は恥じて、老いを告げて退職しようとした。詔は言った。
「司空の衛瓘は、年齢はまだ辞職する年ではないのであるが、年による辞任をしようとしたのは、まだ精神や志が衰えないうちにしよう、と欲したからである。果断な心によって、天性の品格にいたり、まことに私の心を感心させた。今、そのこだわるところを聞いて、位を太保に進め、公に就かせる。親兵百人を給い、長史、司馬、從事中郎掾屬をすえおき、及び、大車、官騎、麾蓋、鼓吹諸威儀を、一切古のしきたりどおりにする。廚田十頃、園五十畝、錢百萬、絹五百匹を与える、床帳簟褥を主はつとめてみやびにしつらえよ。これらをもって、私の崇賢の意とする。」
役人がまた衛宣をとりたてて廷尉にするように進言した。衛瓘の辞職を詔は許さなかった。帝は後になって宦官の作り事を知り、公主をまた返そうとしたが、すでに衛宣は亡くなっていた。

●晋(恵帝即位)

惠帝即位,復瓘千兵。及楊駿誅,以瓘録尚書事,加綠綟綬,劍履上殿,入朝不趨,給騎司馬,與汝南王亮共輔朝政。亮奏遣諸王還籓,與朝臣廷議,無敢應者,唯瓘贊其事,楚王瑋由是憾焉。賈后素怨瓘,且忌其方直,不得騁己淫虐;又聞瓘與瑋有隙,遂謗瓘與亮欲為伊霍之事,啓帝作手詔,使瑋免瓘等官。黄門齎詔授瑋,瑋性輕險,欲騁私怨,夜使清河王遐收瓘。左右疑遐矯詔,咸諫曰:「禮律刑名,台輔大臣,未有此比,且請距之。須自表得報,就戮未晚也。」瓘不從,遂與子恒、嶽、裔及孫等九人同被害,時年七十二。恆二子璪、玠,時在醫家得免。

恵帝が即位して、衛瓘に千兵を戻した。楊駿を誅するにおよんで、もって衛瓘を録尚書事となり、綠綟綬、劍履上殿、入朝不趨、給騎司馬を加えられ、汝南王司馬亮とともに朝政を補佐した。司馬亮は諸王を領国にかえすことを進言し、朝臣と廷議したが、あえて承知するものはなく、ただ衛瓘だけがそのことに賛同した。楚王司馬瑋はこれによって恨みに思った。賈后はもとから衛瓘を恨み、自らの淫虐さをほしいままにできないためにその方正さを嫌っていた。また衛瓘と司馬瑋とに隙があることを聞いて、ついに衛瓘と司馬亮は伊霍(伊尹、霍光/臣下が君主をこらしめたり、廃したりして安泰をはかるたとえ)の事をなそうとしていると謗って帝に言って、衛瓘と司馬亮を二人とも免官にする詔を作らせた。宦官が詔を持参して司馬瑋に授けた。司馬瑋の性質は軽薄で陰険で、私怨をほしいままにしようとして、夜に清河王・司馬遐に衛瓘を捕らえさせた。側仕えの者は司馬遐が詔を偽っているのではないかと疑い、みな諫めて言った。「礼律刑名にも、三公、宰相、大臣が未だこのようになったことはない。しばらくここを去ることを願います。すべからく自ら上奏して返事を得ててから、死刑になってもまだ遅くはないでしょう。」衛瓘は従わなかった。ついに子の衛恒、衛嶽、衛裔および孫九人が同じように殺された。時に七十二歳だった。衛恆の二子、衛璪と衛玠はこのとき医者の家にいたので免れることができた。

※注
・衛玠──『世説新語』識鑒第七。
  衛玠年五歲,神衿可愛。祖太保曰:「此兒有異,顧吾老,不見其大耳!」
 また、ここの注の引用。
 『晋諸公賛』にいう、「衛瓘、字は伯玉、河東、安邑の人。若くしてその明識と誠実さをたたえられた。傅嘏は彼を重んじて、甯武子(甯愈)だといった。仕えて太保に至り、楚王司馬瑋に殺された。」

●杜預

初,杜預聞瓘殺鄧艾,言於衆曰:「伯玉其不免乎!身為名士,位居總帥,既無德音,又不御下以正,是小人而乘君子之器,當何以堪其責乎?」瓘聞之,不俟駕而謝。終如預言。初,瓘家人炊飯,墮地盡化為螺,歲餘而及禍。 太保主簿劉繇等冒難收瓘而葬之。

以前杜預が、衛瓘が鄧艾を殺したことを聞いて、人々に言った。「伯玉はゆるされることはないであろう。身は名士であり、位は総帥にありながら、よい評判もなく、また下の者を正しく御さない。これは小人が君子の器に乗っているようなもので、どうしてその責務にたえることがあるだろうか。」衛瓘はこれをきくと車馬の用意もまたずに謝った。結局杜預の言葉のようになった。以前、衛瓘の家の者が飯を炊くと、地に落ちてことごとく巻き貝に化けた。一年余りして禍に及んだ。太保主簿劉繇らがあえて衛瓘をとりもどして葬った。

●晋

初,瓘為司空,時帳下督榮晦有罪,瓘斥遣之。及難作,隨兵討瓘,故子孫皆及于禍。

以前、衛瓘が司空となり、当時、帳下督であった榮晦が罪を犯し、衛瓘はこれを退けた。難儀になるに及んで、兵を従えて衛瓘を討ったために子孫はみな禍に及んだ。

●死後のこと

楚王瑋之伏誅也,瓘女與國臣書曰:「先公名諡未顯,無異凡人,每怪一國蔑然無言。《春秋》之失,其咎安在?悲憤感慨,故以示意。」於是繇等執黄幡,撾登聞鼓,上言曰:「初,矯詔者至,公承詔當免,即便奉送章綬,雖有兵仗,不施一刃,重敕出第,單車從命。如矯詔之文唯免公官,右軍以下即承詐偽,違其本文,輒戮宰輔,不復表上,橫收公子孫輒皆行刑,賊害大臣父子九人。伏見詔書『為楚王所誑誤,非本同謀者皆弛遣』。如書之旨,謂里舍人被驅逼齎白杖者耳。律,受教殺人,不得免死。況乎手害功臣,賊殺忠良,雖云非謀,理所不赦。今元惡雖誅,殺賊猶存。臣懼有司未詳事實,或有縱漏,不加精盡,使公父子讐賊不滅,冤魂永恨,訴於穹蒼,酷痛之臣,悲於明世。臣等身被創痍,殯斂始訖。謹條瓘前在司空時,帳下給使榮晦無情被黜,知瓘家人數、小孫名字。晦後轉給右軍,其夜晦在門外揚聲大呼,宣詔免公還第。及門開,晦前到中門,複讀所齎偽詔,手取公章綬貂蟬,催公出第。晦按次録瓘家口及其子孫,皆兵仗将送,著東亭道北圍守,一時之間,便皆斬斫。害公子孫,實由於晦。及将人劫盜府庫,皆晦所為。考晦一人,衆姦皆出。乞驗盡情偽,加以族誅。」詔從之。

……

●死後のこと

朝廷以瓘舉門無辜受禍,乃追瓘伐蜀勳,封蘭陵郡公、增邑三千戶,諡曰成,贈假黄鉞。

朝廷は、衛瓘が一門をあげて罪なくして禍を受けたため、衛瓘の蜀を討伐した勲功によって、追って蘭陵郡公に封じ、三千戸を增邑し、諡を成とし、仮黄鉞を贈った。

備考

とりあえず晋書の仮訳だけ。











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