2016.04.04
4161文字 / 読了時間:5.2分程度

孫壱(沙羡侯)は呉の皇族。
孫静の子孫奐(195-234)の庶子。兄に孫承(-243)。兄の死後、兄に子が無かったため後を継いだ。
孫壱は別に同名の人物がいる。

257年6月、諸葛誕の乱の最中(257.5-258.2)、孫綝をおそれて魏に亡命。
魏では車騎将軍、儀同三司、呉侯と厚遇され、元皇帝曹芳(存命)の貴人邢氏を妻として与えられた。
同年12月には呉から全一族が魏に亡命している。

259年11月、女中に殺された。

孫壱及び関係者の年齢について

孫壱の生年は不明である。

兄もまた生年不明であるが、仮に215年(父21歳)に生まれたと想定した場合、死んだ年(243)には28歳(子がいなかったことからも説得力はありそう)となる。
孫壱は兄が死んだ年(243)には成人していたと想定すると221年以前に生まれていることになる。
221年誕生の場合、魏に亡命した年(257)には37歳、殺された年には39歳になる。
それ以前の場合なら兄(腹違い)の生年を215年とした場合、215年までは孫壱生年を遡ることはできるので、+6歳までは可能。

また、妹二人の夫である滕胤と呂拠も生年不明。妹二人の生年も不明であるが、257年時点で少なくとも37歳よりは若い。

滕胤は経歴的には孫峻より若くはないのではないか。諸葛恪と同年代かもしれない(滕胤は諸葛恪の子の岳父)。
また滕胤は20歳で孫壱妹(公主)と結婚しているので、滕胤と孫壱妹はそれほど年は離れていない。孫壱は尚更離れていない。

孫壱の妹

滕胤の死(257)については「綝兵大会、遂殺及将士数十人、夷胤三族(孫綝伝)」とある。

しかし滕胤の妻(孫壱の妹)は生きていて孫壱と共に魏に降っている「壱知其攻己、率部曲千余口過将胤妻奔魏(257)」。

これは滕胤妻が逃げ延びたというよりは、孫壱の妹(公主)であることから許されて「夷胤三族」に含まれず、夫滕胤の死後は兄孫壱のところにいたということであろう。

参考資料――索引(ちくま)

①337,338,344
②469
④298,299
⑥174,317,389


337,338……高貴郷公紀(257年、魏に降った時のこと)
344……高貴郷公紀(259年11月18日殺されたこと)

469……鍾毓伝(魏に降ったこと)

298,299……鍾会伝(檄蜀文内)

174,……孫亮伝(魏に逃亡)
317,……孫奐伝(孫壱の一族、孫壱関連情報、魏に逃亡詳細、妹等)
389……諸葛融伝(諸葛融関連)

253年(嘉平5-曹芳/延煕16-劉禅/建興2-孫亮)

諸葛恪が殺された後その弟諸葛融を攻め、諸葛融は自殺した。

(諸葛融伝)

恪既誅,遺無難督施寬就将軍施績、孫壱、全熙等取融。融卒聞兵士至,惶懼猶豫,不能決計,兵到圍城,飲藥而死,三子皆伏誅。

(注)

  江表傳曰:先是,公安有靈鼉鳴,童謠曰:「白鼉鳴,龜背平,南郡城中可長生,守死不去義無成。」及恪被誅,融果刮金印龜,服之而死。

257年(甘露2-曹髦/延煕20-劉禅/太平2-孫亮)

魏で諸葛誕の乱。
妹の夫の滕胤と呂拠が孫綝に殺される。
6月、孫綝の命で朱異が攻めて来るのをみて、魏に亡命。
魏では車騎将軍、儀同三司、呉侯という厚遇。元皇帝曹芳の妃であった邢氏を妻として与えられた。

(鍾毓伝)

諸葛誕反、大将軍司馬文王議自詣寿春討誕。会呉大将孫壱率衆降、或以為「呉新有釁、必不能復出軍。東兵已多、可須后問」。毓以為「夫論事料敵、当以己度人。今誕挙淮南之地以与呉国、孫壱所率、口不至千、兵不過三百。呉之所失、蓋為無幾。若寿春之囲未解、而呉国之内転安、未可必其不出也。」大将軍曰、「善。」遂将毓行。臣松之以為諸葛誕挙淮南以与呉、孫壱率三百人以帰魏、謂呉有釁、本非有理之言。毓之此議、蓋何足称耳!

(孫奐伝)

孫奐字季明。兄皎既卒、代統其衆、以揚武中郎将領江夏太守。在事一年、遵皎舊跡、礼劉靖、李允、呉碩、張梁及江夏閭挙等、並納其善。奐訥於造次而敏於当宮、軍民称之。黄武五年、権攻石陽、奐以地主、使所部将軍鮮於丹帥五千人先断淮道。自帥呉碩、張梁五千人為軍前鋒、降高城、得三将。大軍引還、権詔使在前住、駕過其軍、見奐軍陳整斉、権歎曰、”初吾憂其遲鈍、今治軍、諸将少能及者、吾無憂矣。”拜揚威将軍、封沙羨侯。呉碩、張梁皆裨将軍、賜爵関内侯。奐亦愛楽儒生、覆命部曲子弟就業、後仕進朝廷者数十人。
年四十、嘉禾三年卒(234)。
子承嗣、以昭武中郎将代統兵、領郡。赤烏六年(243)卒、無子、

封承庶弟壱(孫壱)奉奐後、襲業為将。
孫峻之誅諸葛恪也、壱与全熙、施績攻恪弟公安督融、融自殺(253)。
壱従鎮南遷鎮軍、仮節督夏口。
及孫綝誅滕胤、呂拠、拠、胤皆壱皆之妹夫也、壱弟封又知胤、據謀、自殺。綝遣朱異潛襲壱。
異至武昌、壱知其攻己、率部曲千余口過将胤妻奔魏(257)。

孫峻が諸葛恪を誅殺したとき、孫壱は、全熙や施績とともに、諸葛恪の弟で公安の督であった諸葛融を攻め、諸葛融は自殺をした。
〔その功績により〕孫壱は、鎮南将軍から鎮軍将軍へと昇進し、仮節(地方において皇帝の権力を代行することを許されたしるしばた)を授かって夏口の督となった。
のちに孫綝は滕胤と呂拠とを誅殺したが(257)、呂拠と滕胤はともに孫壱の妹の夫であり、孫壱の弟の孫封も、滕胤と呂拠のくわだてに関与していたことから、自殺をした。
孫綝は、朱異を遣わして、極秘裏に孫壱を襲撃させようとした。
朱異が武昌までやって来ると、孫壱は彼が自分を攻撃するために来たのだということを覚り、部曲千余人を率い、道すがら滕胤の妻のもとに立ち寄っていっしょにひきつれると、魏へと亡命をした。

(孫亮伝)

五月,魏徵東大将軍諸葛誕以淮南之眾保壽春城,遣将軍朱成稱臣上疏,又遣子靚、長史呉綱諸牙門子弟為質。
六月,使文欽、唐咨、全端等歩騎三萬救誕。朱異自虎林率眾襲夏口,夏口督孫壱奔魏。

(高貴郷公紀)

六月乙巳,詔:「呉使持節都督夏口諸軍事鎮軍将軍沙羡侯孫壱,賊之枝屬,位為上将,畏天知命,深鑒禍福,翻然舉衆,遠歸大国,雖微子去殷,樂毅遁燕,無以加之。其以壱為侍中車騎将軍、仮節、交州牧、呉侯,開府辟召儀同三司,依古侯伯八命之禮,兗冕赤舄,事從豐厚。」

(注)
臣松之以為壱畏逼歸命,事無可嘉,格以古義,欲蓋而名彰者也。當時之宜,未得遠遵式典,固應量才受賞,足以酬其來情而已。至乃光錫八命,禮同台鼎,不亦過乎!於招攜致遠,又無取焉。何者?若使彼之将守,與時無嫌,終不悅於殊寵,坐生叛心,以叛而愧,辱孰甚焉?如其憂危将及,非奔不免,則必逃死苟存,無希榮利矣,然則高位厚祿何為者哉?魏初有孟達、黄権,在晋有孫秀、孫楷;達、権爵賞,比壱為輕,秀、楷禮秩,優異尤甚。及至呉平,而降黜數等,不承権輿,豈不緣在始失中乎?

……

冬十二月,呉大将全端、全懌等率衆降。

259年(甘露4-曹髦/景耀2-劉禅/永安2-孫休)

11月18日、女中によって殺害された。

夏六月,司空王昶薨。秋七月,陳留王峻薨。冬十月丙寅,分新城郡,復置上庸郡。
十一月癸卯,車騎将軍孫壱為婢所殺。

十一月癸卯の日(十八日)、車騎将軍の孫壱が女中によって殺害された。

(孫奐伝)

魏以壱為車騎将軍、儀同三司、封呉侯、以故主芳貴人邢氏妻子。
邢美色妒忌、下不堪命、遂共殺壱及邢氏。壱入魏(黄初)三年死。

魏は、孫壱を車騎将軍・儀同三司に任じて、呉侯に封じ、廃主曹芳の貴人(皇妃の位の一つ)であった邢氏を妻として与えた。
邢氏は容貌は美しかったが嫉妬深く、その下にいる者たちは酷使にたえず、共謀して孫壱と邢氏とを殺した。
孫壱は魏に逃げ込んで三年目に死んだのであった。

263年(景元4-曹奐/炎興元-劉禅/永安6-孫休)

鍾会、檄蜀文の中で魏に降った孫壱らが厚遇されたことについて言及。

(鍾会伝)

会移檄蜀将吏士民曰:
「往者漢祚衰微,率土分崩,生民之命,幾於泯滅。太祖武皇帝神武聖哲,撥亂反正,拯其将墜,造我區夏。
……
明者見危於無形,智者規禍於未萌,是以微子去商,長為周賓,陳平背項,立功於漢。豈晏安酖毒,懷祿而不變哉?
今国朝隆天覆之恩,宰輔弘寬恕之德,先惠后誅,好生惡殺。
往者呉将孫壱舉衆内附,位為上司,寵秩殊異。
文欽、唐咨為国大害,叛主仇賊,還為戎首。咨困逼禽獲,欽二子還降,皆将軍、封侯;咨與聞国事。
等窮踧歸命,猶加盛寵,況巴蜀賢知見機而作者哉!
誠能深鑒成敗,邈然高蹈,投跡微子之蹤,錯身陳平之軌,則福同古人,慶流來裔,百姓士民,安堵舊業,農不易畝,巿不回肆,去累卵之危,就永安之福,豈不美與!若偷安旦夕,迷而不反,大兵一發,玉石皆碎,雖欲悔之,亦無及已。
其詳擇利害,自求多福,各具宣布,咸使聞知。」

今我が天子は、万物に恵みを垂れ、天の如き恩沢を隆盛にされ、宰輔たちは寛容の徳を行き渡らせていて、恵みを先にし誅を後にし、生を好み殺を憎むものである。
先ごろ、呉の将軍孫壱は衆を引き連れて帰順し、位は上司となり、ことのほかの殊遇を受けた。
文欽と唐咨とは国に大害をなし、主に叛く讎敵であり、また叛乱軍の首魁であったが、咨は追いつめられて捕虜となったし、欽の二子は降伏したが、皆将軍となり封侯を得た。壱らは追いつめられて、命に従い、特別の恩寵をたまわった。

まして、巴蜀の賢人智者の、機を見て行動を起こすものにおいては、言を待つまでもあるまい。
誠に事の成否の機を熟慮し、心を一転させて高く一歩を踏みだし、微子の跡にならい、陳平の道に身を寄せるならば、その幸福は古人に等しく、その沢は後の子孫に及び、百官士民はその生業に安堵し、農民はもとのごとく耕し、市場はもとの店舗を営み、累卵の危険を去って、永遠の安泰をはかることが出来るのである。なんと素晴らしいことではないか。
若しも一時の安逸を貪って、大軍が一気に来襲したならば、玉石は共に砕け散るのであり、この時に悔いても、取り返す手だては最早ない。
各位はつぶさに宣布して、みなに聞知せしめよ。

備考

「壱入魏(黄初)三年死」の謎の「(黄初)」は、元の維基文庫からあるのでそのまま。

「(黄初)三年」であれば、「222年(黄初3-曹丕/章武2-劉備/黄武元-孫権)」なのでかなり新解釈になる。

これが維基文庫よりもう少し権威ある出処であれば色々考えられそうなので残念。











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