最近公開した三国志っぽい小説のこととか。
「暗い諸葛喬と悪質な馬鈞のクロニクル」について
とりあえず今日、1個公開したー。
暗い諸葛喬と悪質な馬鈞のクロニクル
帽子の中のふにゃふにゃな歴史/medamayaki – カクヨム https://t.co/2mw5tMnGtM— medamayaki🍳 (@medamayaki1) 2017年5月4日
「暗い諸葛喬と悪質な馬鈞のクロニクル」という3000文字程度の掌編。
補足とかはカクヨムの近況ノートに書いた。
GWに最低1個は公開したいと思って、書き途中(仕上げ途中)のものを仕上げるよりは掌編を新しく書きはじめたほうが近道かもと思って、ランダムで作ったお題をもとに作ったものだけど……。
タイトルにはないけれど、前回のブログ記事(移転記事だけど)「晋軍は楽郷を空爆したと語る孫歆という考え方」の思いつきも今回使えたし。
掌編は1アイデア分くらいにしておかないとメモっぽくなると思うので、今回使えなかった案もあるけれど、まあそういうのは仕方ないかなとか。
諸葛喬?
諸葛喬も、なんか結果的に空気になった人だとは思うけれど、諸葛亮、諸葛恪、あと諸葛瞻を考える上でも、特に創作的には可能性広がるかもしれないと思ったり。
あと、自分の中では影の薄い諸葛瑾だけれど実父だし……。
近況ノートにも書いたけれど諸葛喬の没年は多少気になるのでこっちにも書いてみる。
(諸葛喬伝)
喬字伯松,亮兄瑾之第二子也,本字仲慎。與兄元遜俱有名於時,論者以為喬才不及兄,而性業過之。
初,亮未有子,求喬為嗣,瑾啟孫権遣喬來西,亮以喬為己適子,故易其字焉。
拜為駙馬都尉,隨亮至漢中。〈亮與兄瑾書曰:「喬本當還成都,今諸将子弟皆得傳運,思惟宜同榮辱。今使喬督五六百兵,與諸子弟傳於谷中。」書在亮集。〉
年二十五,建興元年(223)卒。
子攀,官至行護軍翊武将軍,亦早卒。
諸葛恪見誅於呉,子孫皆盡,而亮自有冑裔,故攀遠復為瑾後。
手元の「三国志集解」も「建興元年卒」になっているけれどここについて六年(228)だろうという注がついていたり。
「隨亮至漢中。年二十五,建興元年卒」で、建興六年(228)なら、227-228年なら諸葛亮は漢中にいるし、諸葛亮が223年に漢中にいる説よりは元年と六年の間違いだというほうが妥当かなあとか。
ていうかちくま訳だと、建興六年になっている。
ただ、諸葛喬のここから、諸葛亮は223年(劉備が死んで劉禅が即位したとっても忙しそうな年)に息子と一緒に漢中にいた説とかを考えるというのもそれはそれで楽しいかもしれないとは思ったり。
馬鈞?
馬鈞は生没年不明。
ただし、若い頃は遊んでいたという記述があって、235年に曹叡に指南車や人形を見せていることから、この時それほど若くはないだろうなという印象。
ゲームだと200年生まれになっていた記憶もあるので(あやしい)、だいたい生年はそのくらいかなあとか。
そして没年の方。
Googleだと謎生没年が表示されているけれど、没265年は何か根拠あるのかさっぱりわからないから保留。
ただ、三国志にある馬鈞関連は杜夔伝の注がほぼ全て(あとは明帝紀に1箇所)。
(杜夔伝注)
傅玄序之曰、
「馬先生、天下之名巧也、少而游豫、不自知其為巧也。当此之時、言不及巧、焉可以言知乎?為博士居貧、乃思綾機之變、不言而世人知其巧矣。舊綾機五十綜者五十躡、六十綜者六十躡、先生患其喪功費日、乃皆易以十二躡。其奇文異變、因感而作者、猶自然之成形、陰陽之無窮、此輪扁之對不可以言言者、又焉可以言校也。
先生為給事中、与常侍高堂隆、驍騎将軍秦朗爭論於朝、言及指南車、二子謂古無指南車、記言之虛也。先生曰、『古有之、未之思耳、夫何遠之有!』二子哂之曰、『先生名鈞字徳衡、鈞者器之模、而衡者所以定物之軽重;軽重無准而莫不模哉!』先生曰、『虛爭空言、不如試之易效也。』於是二子遂以白明帝、詔先生作之、而指南車成。此一異也、
又不可以言者也、従是天下服其巧矣。居京都、城内有地、可以為園、患無水以灌之、乃作翻車、令童兒転之、而灌水自覆、更入更出、其巧百倍於常。此二異也。
其後人有上百戯者、能設而不能動也。帝以問先生、『可動否?』對曰、『可動。』帝曰、『其巧可益否?』對曰、『可益。』受詔作之。以大木彫構、使其形若輪、平地施之、潛以水発焉。設為女楽舞象、至令木人撃鼓吹簫;作山嶽、使木人跳丸擲剣、緣倒立、出入自在;百官行署、舂磨鬥雞、變巧百端。此三異也。
先生見諸葛亮連弩、曰、『巧則巧矣、未尽善也。』言作之可令加五倍。又患発石車、敵人之於樓邊県濕牛皮、中之則墮、石不能連属而至。欲作一輪、県大石数十、以機鼓輪為常、則以断県石飛撃敵城、使首尾電至。嘗試以車輪県瓴甓数十、飛之数百歩矣。
有裴子者、上国之士也、精通見理、聞而哂之。乃難先生、先生口屈不對。裴子自以為難得其要、言之不已。傅子謂裴子曰、『子所長者言也、所短者巧也。馬氏所長者巧也、所短者言也。以子所長、撃彼所短、則不得不屈。以子所短、難彼所長、則必有所不解者矣。夫巧、天下之微事也、有所不解而難之不已、其相撃刺、必已遠矣。心乖於内、口屈於外、此馬氏所以不對也。』
傅子見安郷侯、言及裴子之論、安郷侯又与裴子同。傅子曰、『聖人具體備物、取人不以一揆也、有以神取之者、有以言取之者、有以事取之者。有以神取之者、不言而誠心先達、徳行顏淵之倫是也。以言取之者、以變辯是非、言語宰我、子貢是也。以事取之者、若政事冉有、季路、文学子游、子夏。雖聖人之明尽物、如有所用、必有所試、然則試冉、季以政、試游、夏以学矣。游、夏猶然、況自此而降者乎!何者?懸言物理、不可以言尽也、施之於事、言之難尽而試之易知也。今若馬氏所欲作者、国之精器、軍之要用也。費十尋之木、労二人之力、不経時而是非定。難試易驗之事而軽以言抑人異能、此猶以己智任天下之事、不易其道以御難尽之物、此所以多廃也。馬氏所作、因變而得是、則初所言者不皆是矣。其不皆是、因不用之、是不世之巧無由出也。夫同情者相妒、同事者相害、中人所不能免也。故君子不以人害人、必以考試為衡石;廃衡石而不用、此美玉所以見誣為石、荊和所以抱璞而哭之也。』
於是安郷侯悟、遂言之武安侯、武安侯忽之、不果試也。
此既易試之事、又馬氏巧名已定、猶忽而不察、況幽深之才、無名之璞乎?后之君子其鑒之哉!馬先生之巧、雖古公輸般、墨翟、王爾、近漢世張平子、不能過也。公輸般、墨翟皆見用於時、乃有益於世。平子雖為侍中、馬先生雖給事省中、倶不典工官、巧無益於世。用人不当其才、聞賢不試以事、良可恨也。」
裴子者、裴秀。安郷侯者、曹羲。武安侯者、曹爽也。
で、馬鈞の才能を惜しんでいる傅玄が書いている馬鈞の事績が曹爽に忘れられたことで終わっていること、傅玄の経歴(司馬昭にその後とりたてられ西晋で司隷校尉までなった)からすると、曹爽の死(249)からそう遠くない時期に馬鈞も死んでいると考えたほうがいろいろ辻褄合うかなとか。
「ティエポロのゼノビア」
1月に公開した「肝臓探し」についてはこっちでも書いたけれど、4月に公開した2つについては書いてなかったのでそっちも書いておくことに。
「ティエポロのゼノビア」は11,014文字。
短編集のなかでもわりと長めではあったり。
タイトルはこんなだけれど、中身は瘟神(疫病神)になっている鍾会とサンジェルマン伯爵の話がメインだったり。
主人公は瘟神鍾会。
この設定は色々便利なのもあって(どの時代にも登場させられるし、神だしってことでいろいろ自由度高いし)お気に入り。
「四本論の行方」
「四本論の行方」はキャプション「鍾会は高名な嵆康に自作の論文を読んでもらおうとするが……。」といった感じ。
世説新語とかにある鍾会と嵆康のエピソードを自分の思いつきなりにつなげた感じ。
こっちは生前の鍾会(つまり三国志の鍾会)の話で、オカルト要素が今回この記事で触れた3つのなかでは一番薄い感じ。
ていうかオカルト要素あったっけっていう……。
基本的には幽霊とか生きている人間以外が登場する話が落ち着くけれど、たまにはこういうのもいいかなとか。
おわりに
鍾会主人公の話は書いてて楽しい。
そして今日公開した諸葛喬主人公みたいなのも、自分の中の三国志の世界が広がっていくのでそれはそれで必要だと思ったり。
今書き途中、仕上げ途中のはどっちも曹丕主人公なんだけど、いつ公開できるかな……。
最近、曹氏が楽しいと思っていたり。
とりあえずおわり。