2016.11.25
3097文字 / 読了時間:3.9分程度
三国志

久しぶりの記事。

諸葛亮の病死について

諸葛亮の死因は病死、と諸葛亮伝には書かれている。

(諸葛亮伝)

相持百餘日。
其年八月,亮疾病,卒于軍,時年五十四。

陳寿が書いた諸葛亮の死はこうだということをまず確認。

イメージとして一般的になっている諸葛亮過労死解釈(それが妥当かどうかは保留)の最初の出典はここなんじゃないかな。

(諸葛亮伝注)

魏氏春秋曰:
亮使至,問其寢食及其事之煩簡,不問戎事。
使對曰:「諸葛公夙興夜寐,罰二十以上,皆親攬焉;所啖食不至數升。」
宣王(司馬懿)曰:「亮将死矣。」

あくまで、「魏氏春秋」の、司馬懿あげ系エピソードの一つとして書かれたものなんじゃないかなとか。

まあともかく、五丈原で遊んでたわけではない以上、疲れたりストレスがあることは確かだろうけど。

234年の魏

魏の明帝紀を見てみる。

(明帝紀)

二年春二月乙未、太白犯熒惑。
癸酉、詔曰、「鞭作官刑、所以糾慢怠也、而頃多以無辜死。其減鞭杖之制、著於令。」

三月庚寅、山陽公薨、帝素服発哀、遣使持節典護喪事。己酉、大赦。
夏四月、大疫。崇華殿災。
丙寅、詔有司以太牢告祠文帝廟。追諡山陽公為漢孝獻皇帝、葬以漢礼。

是月、諸葛亮出斜谷、屯渭南、司馬宣王率諸軍拒之。
詔宣王、「但堅壁拒守以挫其鋒、彼進不得志、退無与戦、久停則糧尽、虜略無所獲、則必走矣。走而追之、以逸待労、全勝之道也。」

五月、太白晝見。
孫権入居巣湖口、向合肥新城、又遣将陸議、孫韶各将万余人入淮、沔。
六月、征東将軍満寵進軍拒之。寵欲拔新城守、致賊寿春、帝不聴、曰、「昔漢光武遣兵県據略陽、終以破隗囂、先帝東置合肥、南守襄陽、西固祁山、賊来輒破於三城之下者、地有所必爭也。縱権攻新城、必不能拔。敕諸将堅守、吾将自往征之、比至、恐権走也。」
秋七月壬寅、帝親御龍舟東征、権攻新城、将軍張穎等拒守力戦、帝軍未至数百里、権遁走、議、韶等亦退。群臣以為大将軍方与諸葛亮相持未解、車駕可西幸長安。帝曰、「権走、亮膽破、大将軍以制之、吾無憂矣。」遂進軍幸寿春、録諸将功、封賞各有差。八月己未、大曜兵、饗六軍、遣使者持節犒労合肥、寿春諸軍。辛巳、行還許昌宮。
司馬宣王与亮相持、連囲積日、亮数挑戦、宣王堅壘不応。会亮卒、其軍退還。

3月、献帝が死んでたり。

あとは4月に、疫病があったり、火事があったり(夏四月、大疫。崇華殿災)。

この魏に災害があった4月は、諸葛亮が攻めてきたのと同時期(是月、諸葛亮出斜谷)。

蜀あるいは諸葛亮はどれくらいこの辺の情報は入ってきていたのかな。

ただ、知っていれば士気は上がりそうな気もしたり。

司馬懿寄りの見方は現状充分浸透していると思うのでとりあえず保留。

(演義は、諸葛亮を主人公には描いているにしても、蜀を少なくとも過大評価全然していないと思う。民衆に愛されるヒーローに諸葛亮をしたてたかったら負けた方がなんだかんだで惜しまれながら結局は共感呼ぶのかもしれない。強大な敵に立ち向かって敗れ去る悲劇性は高まるけれど、諸葛亮自身は悲壮感溢れる気分で北伐していたかはどうなのかなっていう。)

もう一つ気になるのは、呉だけれど。
それは、次に呉の孫権伝の方で改めてみてみることに。

この時の合肥新城のことは、満寵伝にも詳しかったり。

234年の呉

(孫権伝)

(嘉禾)三年(234)春正月,詔曰:”兵久不輟,民困於役,歲或不登。其寬諸逋,勿復督課。”
夏五月,権遣陸遜、諸葛瑾等屯江夏、沔口,孫韶、張承等向廣陵、淮陽,権率大衆圍合肥新城。
是時蜀相諸葛亮出武功,権謂魏明帝不能遠出,而帝遣兵助司馬宣王拒亮。自率水軍東征。
未至壽春,権退還
,孫韶亦罷。
秋八月,以諸葛恪為丹楊太守,討山越。

同盟関係は別に親しさや信頼、好き嫌いの問題ではないし。

てことで蜀と呉の同盟関係は、ほとんど互いにまあ同盟解消にならなければ充分くらいの認識だったのかなとか。

蜀寄りに考えれば、この時の呉はなんだかんだでやる気がないような印象も受けるし、少なくとも使えないという印象は強まったんじゃないかな。

で、当時の蜀の人もそう考えたんじゃないかなとか。

あと謎なのは、陸遜(陸議)と諸葛瑾。

孫権伝にはこう書いてあるけれど、諸葛瑾伝には特に書いてない気がするし、陸遜伝だと、236年のことになっていたり。

(陸遜伝)

嘉禾五年(236),権北征。使遜與諸葛瑾攻襄陽。遜遣親人韓扁□表奉報,還。遇敵於沔中,鈔邏得扁。瑾聞之甚懼。書與遜云:”大駕已旋,賊得韓扁,具知吾闊狹。且水干,宜當急去。”
遜未答,方催人種葑豆,與諸将欒棋射戯如常。瑾曰:”伯言多智略,其當有以。”自來見遜,
遜曰:”賊知大駕以旋,無所復戚,得專力於吾。又已守要害之處,兵将意動,且當自定以安之,施設變術,然後出耳。今便示退,賊當謂吾怖,仍來相蹙,必敗之勢也。”
乃密與瑾立計,令瑾督舟船,遜悉上兵馬,以向襄陽城。敵素憚遜,遽還赴城。瑾便引船出,遜徐整部伍,張拓聲勢,歩趨船,敵不敢幹。軍到白圍,託言住獵,潛遣将軍周峻、張梁等擊江夏新市、安陸、石陽,石陽市盛,峻等奄至,人皆捐物入城。城門噎不得關,敵乃自斫殺己民。然後得闔。斬首獲生,凡千餘人。其所生得,皆加營護,不令兵士千擾侵侮。将家屬來者,使就料視。若亡其妻子者,即給衣糧,厚加慰勞,發遺令還,或有感慕相攜而歸者。鄰境懷之,江夏功曹趙濯、弋陽備将裴生及夷王梅頤等,並帥支黨來附遜。遜傾財帛,周贍經恤。

伝は結構何年のことか省略してあることが多いのに(そのせいで年表把握したいのに難易度高まって大迷惑だし)、この陸遜伝にはちゃんと「嘉禾五年(236)」と書いてある。

236年にも一応同じようなこと(権北征。使遜與諸葛瑾攻襄陽)があったのかとも考えられるけれど、孫権伝の236年はこんなあっさり具合(全部)。

(孫権伝)

(嘉禾)五年(236)春,鑄大錢,一當五百。詔使吏民輸銅,計銅畀直。設盜鑄之科。
二月,武昌言甘露降於禮賓殿。輔呉将軍張昭卒。
中郎将吾粲獲李桓,将軍唐咨獲羅厲等。
自十月不雨,至於夏。
冬十月,彗星見於東方。鄱陽賊彭旦等為乱。

てか、張昭この年にもまだ生きてたんだっていう感慨はあるけれど。まあそれはいいとして。

てことで。
陸遜伝に「嘉禾五年(236)権北征」とあるけれど、孫権伝で「権北征」に完全に触れないということもなさそうな気もするので、これについて、陸遜と諸葛瑾のことは、陳寿が間違ったか何か理由があって、234年のことを236年のことだと書いたのかなとか。

この陸遜伝の内容については、陸遜、元々とりあえずやる気がなかった可能性も考えられなくはない気もしたり。

そして、蜀視点で考えれば、襄陽を攻めるはずの陸遜と諸葛瑾の失敗(あるいはやる気の無さ)は、不信感を抱くものだったんじゃないかなとか。

諸葛瑾は諸葛亮の兄だし、諸葛亮は陸遜と手紙のやりとりとかもしていたみたいだけれど。
とりあえず諸葛亮のためにがんばるつもり(そんなことをする義理はないだろうし)は特に無かった様子。

諸葛亮の寿命が少し伸びたif?

最初の疑問は、諸葛亮が五丈原で死ななかったらどうなったのかなという疑問。

結局撤退する時期が遅れるだけ、トラブル(魏延が色々あって殺されるとか)もなく順調に撤退できただけ程度の結果なのか。

それとも、もう少し良い成果を出せたのかなあとか。

おわりに

結局はIFなわけだけど。
ただ、調べて考えるIFの方が色々材料あって楽しいし。自分なりには調べたり考えてはおきたいなとか。

とりあえず気になる陸遜。
この頃何考えてたのかなとか。





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