2016.08.13
6017文字 / 読了時間:7.5分程度
クンデラ

クンデラの評論集「裏切られた遺言」、読んだので読書メモとか。

「カーテン」(評論集)もだけど、この作品もタイトルだけみると小説作品みたいで紛らわしい感じ。

とはいえ中身は良いけれど。

ただ、音楽関連が多くて、その辺は今回の興味から外れるので小説論とつながりがあまりないところは正直読み飛ばしたけど……。

メインは(自分にとっては?)小説論だと思ったり。

「裏切られた遺言」気になったページメモ

付箋がわりのページ数メモから。

9.11.12.19.20.25.
26.27.28
53.62.64
73
88.95.107.152.167.172
173.179.180.182.183.199.200.202.219
269.271.272
303.305.306

ざっとこんな感じ。

以下、メモ収録。

9

新しい芸術の誕生という希有な時期は、ラブレーの本に信じがたいような豊かさをあたえた。すべてがそこにある。
本当らしいことと本当らしくないこと、アレゴリー、風刺、巨人たちと人間たち、逸話、考察、現実および架空の旅、博学な論争、純粋に言語的な名人芸の脱線。
十九世紀の後継者たる今日の小説家は、初期の小説家たちのすばらしくも雑多なそんな世界と、そんな世界に彼らが陽気な自由をもって住んでいたことに、羨望にも似た郷愁を覚える。

11.12
(オクタビオ・パス、ユーモアについて)

17
(無神論者)

18.19

(トーマス・マン)
しかし個人的な思想が個人のアイデンティティの基礎ではないとしたら(それが帽子以上の重要性をもたないとしたら)、その基礎はいったいどこにあるのか?
 このような終わりのない探求にたいして、トーマス・マンは彼なりのきわめて重要な貢献をした。
われわれは行動していると考え、考えていると考えているが、しかしわれわれのなかで考え、行動しているのは他者あるいは他者たちなのだと。

20
個人は、たとえどんなに誠実であろうと、だれかの生まれ変わりでしかないのであり、たとえどんな真実であろうと、過去という井戸から発する示唆と指令の結果でしかないのだ。

(小説におけるさまざまな歴史的時代の共存)

現代の多くの小説に対するクンデラの批判。

25
しかしこれと同じ文句、「歴史の終焉」が芸術に適用されると、私の心が締めつけられる。私はあまりにもよくその終焉を想像できるのだ。
なぜなら今日の小説の制作の大半は、小説の歴史の外にある小説によってなされているのだからである。
小説化された告白、小説化されたルポタージュ、小説化された仕返し、小説化された自伝、小説化された無遠慮、小説化された告発、小説化された政治的教訓、小説化された夫の断末魔、小説化された父の断末魔、小説化された母の断末魔、小説化された処女喪失、小説化された出産、時の終わりにいたるまで限りない小説、小説、小説……。
これらは新しいことをなにも語らず、どんな審美的主張もなく、私たちの人間理解にも小説形式にもどんな変化ももたらさず、互いに相似通っていて、朝に完全に消費され、晩に完全に捨てることのできるものなのだ。

ここから、これを裏返すことによって、クンデラが考える良い小説とはどんなものかがみえてくる。

  • 小説の歴史の中にある
  • 新しいことを語る
  • 審美的主張がある
  • 人間理解に変化をもたらす
  • 小説形式に変化をもたらす
  • 互いに似通っていない
  • すぐに消費されず、すぐに捨て去られない

26
セルバンテスは、『ドン・キホーテ』を書いている途中で、主人公の性格を遠慮なく変えてしまった。
ラブレー、セルバンテス、スターンが私たちを魅了するあの自由は、即興と結びついている。
複雑で厳密な構成の技法が至上の必然性になったのは、一九世紀の前半でしかなかった。

27.28
(今日、自由を目指すなら)

カフカについて。

53
(カフカ学)

カフカ学は無数の序文、後記、注記、伝記と専門研究、大学の講演と博士論文などによって、固有のカフカ像を生産、維持し、その結果、読者がカフカという名前で知っている作家はもはやカフカではなく、カフカ学化されたカフカになってしまった。

(カフカ学の定義)

61
(シュールレアリズム宣言)

62
カフカが私たちを魅了するあのような種類の想像力を記述し、定義し、名状することはきわめて難しい。
夢と現実との融合、もちろんカフカが知らなかったそんな表現が、事柄を明快にしてくれるように私には思われる。

クンデラの小説の定義。

64

というのも、現実世界を把握することは、小説の定義そのものの一部だからだ。

ここから第三部。

73
近代小説を創立したセルバンテスの大傑作は非=真面目の精神によって生命をあたえられていたのだが、それ以後この非=真面目の精神は後半の時代の小説の美学、その本当らしさの要請によって不可解なものにされたのである。

本当らしさの要請への疑問。

(以下続きのメモ)

88
プルースト以後の時期のもっとも偉大な小説化として、私はとりわけカフカ、ムージル、ブロッホ、ゴンブローヴィチ、あるいは私の世代ではフエンテスらのことを考えるのだが、彼らは一九世紀以前の、ほとんど忘れられていた小説美学にきわめて敏感だった。彼らは小説技法のなかにエッセー的な考察を組み入れ、構成をより自由なものにし、逸脱への権利を奪回し、小説に非真面目と遊びの精神を吹き込み、(バルザックのように)戸籍簿と競争するとは主張せずに人物を創りだすことによって、心理的リアリズムの教義を断念した。彼らはなかんずく、読者に現実の幻覚をあたえるという義務、すなわち小説の後半の時代全体を完全に支配した義務に反対した。

95
カフカの『アメリカ』は奇妙な小説である。じっさい、この二十九歳の若い散文作家がなぜ、最初の小説を自分が一度も足を踏み入れたことのない大陸に位置づけたのか? この選択は一つの明瞭な意図を示している。つまりリアリズムはやらない、さらに言えば真面目なことはやらない、ということだ。彼はみずからの無知を研究によって糊塗しようとすらせず、二流の書物の知識、ありきたりのイメージに従って自分のアメリカ観をつくりだした。

107
私はずっとまえから、芸術作品のなかに認識するという意図、つまり現実のしかじかの側面を理解し、把握するという意図を探さないで、一つの(政治的、哲学的、宗教的等々の)態度をみつけたがる者たちを深く、激しく憎んでいる。

152
というのも、散文はただ韻文と区別される言説の一形式であるばかりではなく、現実の一つの顔、現実の日常的、具体的、一時的な顔であり、神話の対極にある顔だからである。ここでひとは、人生という散文ほど隠されたものはなにもないのだという、あらゆる小説家のもっとも内奥の信念にふれることになる。どんな人間もたえず自分の人生を神話に変えようとし、それをいわば韻文に書き直し、韻文(拙劣な韻文)によって覆ってしまおうとする。
……
小説が散文の神秘、散文の美(なぜなら芸術であるかぎり、小説は美として散文を発見するから)へと向かう途上で、フロベールははかりしれない大きな一歩を踏み出した。

167
(キッチュ化)
このようにして、キッチュ化の解釈は芸術作品を殺してしまう。
……
この力はただ芸術だけを狙うのではなく、なによりもまず現実そのものを狙い、フロベール、ヤナーチェク、ジョイス、ヘミングウェイのおこなったのと正反対のことをする。それは、現実の顔が消え去ってしまうように、現在の瞬間に常套句というヴェールを投げかけてしまうのである。
 それは、ひとがなにを生きたのかを、けっして知らないようにするためだ。

171-
(ニーチェについて)

172
ニーチェによれば、哲学者は「別の道によってたどり着いた事柄や思想を、演繹と弁証法の偽りの配置によって捏造してはならない。(……)思想が私たちのもとにやってくる実際の在り様を隠すべきでも、歪めるべきでもあるまい。もっとも深遠でもっとも汲み尽くしえない書物は、たぶんパスカルの『パンセ』のようなアフォリズム風の唐突な性格をどこか、つねにもっていることだろう」(『残された断章』)という。
「思想が私たちのもとにやってくる実際の在り様を歪めないこと」。私はこの至上命令を並外れたものだと思う。
……
それは一つの思想が一気に語られるためであり、思想が哲学者のもとに迅速に、踊りながら駆けつけたときに見せたままの姿で定着されるためなのだ。

思想が彼のもとにやってくる「実際の在り様」を保とうというニーチェの意志は、みずからの思想を体系に変えるという誘惑に抵抗するという、もう一つの至上命令と不可分である。

179
小説芸術を批判したブルトンは、小説の弱点を攻撃したのか、それとも本質を攻撃したのだろうか? まず、彼はなによりも一九世紀初頭、バルザックとともに生まれた小説美学を攻撃したのだと言っておこう。

182

だから現代芸術にたいする私の忠誠は、小説の反叙情主義への固執と同じくらい情熱的なものなのだ。ブルトンにとって大切であり、現代芸術にとって大切だった詩的な価値(強度、密度、解き放たれた想像力、「人生の無価値な瞬間」にたいする軽蔑)を、私はもっぱら、幻想を捨て去った小説の領域にさがした。しかしだからこそよけいに、その詩的な価値が私には大事なものだったのだともいえる。

183
(ラブレー)
彼らは魅惑的だと思うことについて語るが、その魅惑がやむときには、彼らもやめる。そんな彼らの構成の自在さが私を夢見心地にさせたのである。サスペンスをでっち上げず、物語を構築せず、また物語を本当らしく見せかけずに書くこと、一つの時代、環境、都市を描写せずに書くこと。それらをすべて打ち捨てて本質的なものにしか触れないこと。

198.199
ニーチェは体系の拒否によって哲学の仕方を根底的に変えた。
……
私が小説における思考力の強力な存在の賛同者だからといって、「哲学小説」と呼ばれるもの、あの小説の哲学への隷従、あの道徳もしくは政治思想の「物語化」が好きなわけではない。本来的な小説的な(ラブレー以来小説が知っているがままの)思考は、つねに非体系的なもの、統制化されないものなのである。それはニーチェの思考に近く、実験的なものである。小説的思考は私たちを取り巻いているすべての思想体系に力ずくで突破口を開き、(なかんずく人物たちの仲介によって)考察のあらゆる道を検討し、それぞれの道の果てにまで行こうとする。

……
ところが、思考する者はみずからの真実を他人に説得するよう努めてはならないのだ。もしそうするなら、彼は体系への途上、あの嘆かわしい「信念の人」への途上に身を置くことになるだろう。政治家たちはそんなふうに自己を形容することが好きだが、しかし信念とはなにか? それは立ち止まり固定した思考のことであり、「信念の人」とは偏狭な人間のことなのである。
実験的な思考は説得を望まず、鼓吹を望む。別の思考を鼓吹し、思考力を始動させることを望むのだ。だからこそ小説家はみずからの思考を体系的に非体系化し、自分の考えのまわりにみずから築いたバリケードを足蹴りにしなければならないのである。

201
ムージルの思考された小説もまた、かつて見られたことのない主題的拡大を成し遂げた。それ以後、思考されうるもののなにひとつ、小説芸術から排除されなくなったのである。

202
(クンデラの子供の頃のユダヤ人音楽教師)
しかしその考察それ自体よりもずっと私に貴重なのは、恐ろしい旅を間近にして、ひとりの子供のまえで大きな声で、芸術作品の構成の問題を考察してみせたひとりの男のイメージである。

これはクンデラの思い出話。

218.219
小国民。これはたんなる量的な概念ではない。一つの状況、一つの運命を示す概念である。小国民はずっと前からつねに、永遠に存在しているという幸福な感覚を知らない。彼らは歴史のある時期に、いずれも死の控えの間を通った経験をもっている。

269
(小説の思考)
というのも、ムージルはただ小説においてだけ偉大な思想家だったからなのだ。
彼の思想は具体的な人物たちの具体的な状況に培われることを必要とする。つまり、それは哲学的ではなく、小説的思考なのである。

小説的会話や行動があるように、小説的考察というものがある。

(歴史を語るトルストイ)
彼は人間の実存の新しい次元として歴史に興味を抱くのである。

271
トルストイは、歴史が偉大な人物たちの意志と理性によってつくられるという考えに論戦を挑む。彼によれば、歴史はそれ自体でつくられ、それ固有の法則に従うが、人間にはその法則は不可解なものとしてとどまるのだという。

次は、特に歴史小説や歴史を考える上で重要そう。

272
人間は霧のなかを進む者である。しかしうしろを振り返って過去の人々を裁こうとするときには、途中にはどんな霧も見えない。かつて過去の人々の遠い未来だった現在から見ると、彼らの道はまったく明るく、その広がりがすっかり見渡せるように思える。
……
しかしながら、みんなが、ハイデガー、マヤコフスキー、アラゴン、エズラ・パウンド、ゴーリキー、ゴットフリート・ベン、サン=ジョン・ペルス、ジヨノらのみんなが霧のなかを歩いていたのである。
そこでひとはこう自問してもいい。いったいだれの眼のほうが見えないのだろうか、と。
レーニンについての詩を書きながら、レーニン主義がどこにひとを導くのか知らなかったマヤコフスキーだろうか? それとも、数十年の隔たりを置いて彼を裁き、彼を包んでいた霧が見えない私たちのほうなのだろうか?
 マヤコフスキーの迷妄は、永遠に変わらぬ人間の条件の一部である。
 マヤコフスキーの途上に霧を見ないこと、それは人間のなんたるかを忘れることであり、私たち自身のなんたるかを忘れることなのだ。

303
小説と回想録、伝記、自伝などとのあいだには、本質的な違いがある。伝記の価値は、明らかにされた現実の事実の新しさと正確さのなかにある。小説の価値はあるがままの実存の、それまで隠蔽されていた可能性の開示にある。言い換えれば、小説は私たちの各人のなかに隠されているものを発見する。

(モデル小説の否定)

305
小説家は元来、そのような伝記的狂乱から見を守ってきた。マルセル・プルーストによれば、そんな伝記的狂乱の元祖にして代表者は、つぎのような標語を掲げていたサント=ブーヴだという。「文学は人間の他の部分と区別できない、すくなくとも切り離せない……」。

306
プルーストの判断は絶対的であり、サント=ブーヴの方法では作者の別の自我が見えないと、作者の審美的意志が見えず、芸術とは相容れず、芸術に逆行すると、つまりミューズ嫌いであると言ったのだ。

まとめ

今回は読書メモがほとんど。

あとで改めて、一つ一つとりあげて見なおしたりしていきたい。

おわり。









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三国志他歴史、小説、ゲーム等に関するメモ用ブログ。

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