曹髦が死なない可能性?
曹髦が司馬昭を殺すのに成功していたら、まあ自分の好き嫌いからいって特に曹髦好きにはならなかっただろうけれど。
今思っているのでは、曹髦が張飛並の武勇をもっていたら、少なくとも成済に殺されなかったんじゃないかなとか。
(張飛伝)
飛據水断橋、瞋目横矛曰、「身是張益徳也、可来共決死!」敵皆無敢近者、故遂得免。
張飛は川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせて矛を小脇にして、「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。
14歳で既に曹操並の武をもっていた(鍾会評)なら、20歳で張飛並になることはできなかったのかなあとか。
曹髦が無限ループ的にやりなおせるなら、次はそっち方面から攻めてみるのがいいんじゃないかと思ったり。
曹髦が好きな人?
曹髦ファンとか曹髦が好きな人ってどれくらいいるのかなとか。
とりあえず検索したら自分の書いたものがひっかかった(ほかもひっかかるけれど、ざっとみたかぎり特に曹髦ファンというわけでもない様子)。
曹操とか魏が好きとか、あるいは司馬氏が嫌いだとかで曹髦に同情的な感覚の人ならそれなりにいると思うけれど。
でも後者はともかく前者(曹魏ファン)は、そもそも魏末期のことは関心度が低い(それはそうだろうし)感じだから、結局はあんまり話題にものぼらないのかな。
曹髦とニーチェ?
全力で自滅(自滅するとは思っていない)していくところに、ニーチェ的な没落を重ねることはできるかも?
曹髦も鍾会もそんな解釈の上で好きだったり。
ニーチェの超人(あるいはツァラトゥストラの)この超ポジティブさも好き。
しかし、高貴な者の危険をいうなら、それは善人となることより、むしろ鉄面皮な者、冷笑する者、否定する者となることだ。
あなたの魂のなかの英雄を投げ捨てるな! あなたの最高の希望を聖なるものとして保ってくれ!──
(「ツァラトゥストラはこう言った」)
勇気にまさる殺し屋はいない。勇気はまた同情をも打ち殺す。苦悩への同情こそ底の知れない深淵なのだ。深く人生のなかをのぞけばのぞくほど、人間はそれだけ深く苦悩のなかを見るのだ。
勇気にまさる殺し屋はいない。すすんで攻める勇気、それは死をも打ち殺す。なぜなら勇気はこう言うからだ。「これが生きるということであったのか? よし! もう一度!」
かかることばには、喨々とひびく音楽がある。耳のある者は聞くがよい。──(「ツァラトゥストラはこう言った」)
人間において、わたしが愛しうるところは、かれがひとつの移りゆきであり、没落であるということだ。
あなたがたが絶望におちいっているということ、そこには多大の敬意を払うべきものがある。なぜなら、あなたがたはあきらめるということを学ばなかったのだから。小さな知恵を学ばなかったのだから。
あきらめるよりも、むしろ絶望せよ。
(「ツァラトゥストラはこう言った」)
ツァラトゥストラも読みなおすとやっぱいいな。
まとめ
ニーチェは昔から好きだったので、ニーチェっぽいなら好きになるのかも(リアルニーチェはわりと人格アレだと思ってるけど)。
野球の打率と同じで、学者にしろ哲学者にしろ、全部正しいかそうではないか――という判断は、非現実的だと思う。
どんな殿堂入り打者も10割打者じゃないし。
だから、どんな偉大な学者、思想家も、全てが正しいわけじゃない。
おわり。