2016.04.17
6528文字 / 読了時間:8.2分程度
クンデラ

クンデラの「存在の耐えられない軽さ」、存在はずっと気になっていたけれどなんとなくもっていた先入見から少なくともまともには今まで読んでいなかったり。

とはいえ、クンデラの他の作品もいくつか読んで好きな(尊敬する)作家の一人にはなっていたので、代表作ということになっているし、まあともかく読んでみたかったので改めて読んでみたり。今更という気分だけど……。

クンデラ「存在の耐えられない軽さ」に対して持っていた個人的偏見?

とりあえず、20世紀は性的なものをとりあげるのが流行で、最先端、前衛的、芸術的と扱われる時代だったと総括できるのではないかという、2016年現在の個人的感覚。

「存在の耐えられない軽さ」はあらすじだけを見ると、そんな流行でもてはやされているだけにも見えたり。

とりあえずアマゾンでみると内容はこんな。

>内容(「BOOK」データベースより)

本書はチェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家ミラン・クンデラが、パリ亡命時代に発表、たちまち全世界を興奮の渦に巻き込んだ、衝撃的傑作。「プラハの春」とその凋落の時代を背景に、ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇―。たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?甘美にして哀切。究極の恋愛小説。

で、特にこのなかの「ドン・ファンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが辿る、愛の悲劇」「甘美にして哀切。究極の恋愛小説」あたりが、なんかいかにも薄っぺらそう(なだけならともかく、その上好みにあわなそうという所がだめ)な印象で、更にその印象を強めるようなカバーデザイン(日本のだけか知らないけど、ただ「不滅」だと外国人の名前があるから元からかも)で、更に――自分にとってはつまらなそう――という印象になってたり。

映画のほうだと更に個人的に微妙……。

クンデラ「存在の耐えられない軽さ」(表紙)  sonzainotaerarenaikarusaeiga

「存在の耐えられない軽さ」と性の経験の特別な価値?

とはいえ、これは単なる個人的な偏見だったというわけではなくて、クンデラ自身というかこの作品自体でも実際に主張されていることではあったり。

百万分の一の異なったものが貴重なものとして現れるのは、ただ性の経験においてのみなのである。なぜなら、それは公的には近寄りがたく、征服しなければならないものだから。また半世紀まえには、その種の征服には大変な時間が必要とされ、征服されたものの価値は征服するのに費やされた時間によって測られていた。こんにちでも、征服の時間はかなり短縮されたとはいえ、性の経験は依然として、女性の自我が隠されている銀の箱のように思われるのだ。

「百万分の一」というのはその直前にあるこれ。

この十年の医療活動のあいだ、もっぱら人間の頭脳に取り組んできたトマーシュは、「自我」ほど捉えがたいものはないことを知っていた。ヒトラーとアインシュタインのあいだ、ブレジネフとソルジェニーツィンのあいだには、差異よりも類似のほうがずっと多くある。もしひとが算術的にそれを表現できるとするなら、彼らのあいだには異なったものが百万分の一、似たものが九十九万九千九百九十九あるだろう。
 トマーシュはその百万分の一を発見し、それをつかまえてやりたいという欲望に取りつかれているのである。

つまりここでいう「百万分の一」とは、ヒトラーとアインシュタインを区別する「自我」のこと。

ただ、「百万分の一の異なったものが貴重なものとして現れるのは、ただ性の経験においてのみ」と断定をして、その後「なぜなら」とその理由を証明しようとしているのはわかるけれど、この「公的には近寄りがたく、征服しなければならないものだから」が「貴重なものとして現れるのは、ただ……のみ」という強い限定までを納得させられる内容になっているかは疑問ではあったり。

トマーシュの考え――という書き方なら全然気にならないんだけれど、クンデラは作者(クンデラ自身ではないにしろ)としての「私」の思考を地の文に積極的に取り入れる(というか評論も小説の要素の一つだと考えている)人で、この部分はトマーシュの考えという書き方にはなっていないような? 
トマーシュよりではあるかもしれないにしても?

だからこれはどうしても「性の経験は貴重」という結論が前提になっている牽強付会な印象は拭えなかったり。

つまり、――性の経験は自我(百万分の一)を知るために有用――というだけなら納得もできるけれど。

そうではなくて、――性の経験「のみ」が自我(百万分の一)を知るために有用――とまで断定するから、それは無理があるのではないかという印象になったり。

……これはやっぱりトマーシュの考えとして読むのがいいのかなあ。

そうでないと、おかしい気はする。

「自我」を描くには性的な部分のみが重要――ともしクンデラが本気で考えているのであれば、クンデラ作品は最初から最後までそれだけを描いているはずではないのか。

てことで。

これはトマーシュの思考(トマーシュの実存)だと受け取らないとおかしいと思う。
もし、作者の評論にみえるとしたら、それは書き方(あるいは読解力)に問題があるだけということで。

てことでこの件についてはとりあえずおわり。

ただし、このぼんやりとした(トマーシュという人物の輪郭からはみ出ているような)性の経験「のみ」が自我(百万分の一)を知るために有用――といった考え方は、自分の中での20世紀的な芸術の潮流(底辺では単なる流行)そのままな気はするし、なので本の帯の「20世紀恋愛小説の最高傑作」というのも、わりと正しい気もしたり。

色好み、ドン・フアン、猟色――の謎?

なにはともあれ、この作品の主人公の一人(トマーシュとテレザの二人が主人公)トマーシュは、ドン・フアン的人物――という性質をその誕生の根源の一つに持っているらしい人物だと思うけれど。

個人的にすごく謎だった、つまり説明してほしかった(クンデラは小説的な世界の分析がうまくてそこが最大の本質で魅力でもあると思う)好色家の考え方を分析してくれているので、かなり目からウロコだったり。

小説の一つの理想は、こういうことをしてくれる点だとは思うし。

で、ともかくトマーシュという人物で描かれた色好みの分析。

 彼はこれらすべての女性たちになにを求めていたのか? 女性たちのなにが彼を惹きつけるのか? 肉体の愛は同じことの永遠の繰り返しではないのか?

まずはこのような問いかけ、つまりトマーシュの猟色とは何なのかという問いから。

 まったくそうではない。想像できないちいさな部分がいつも残るのである。きちんと服をきているひとりの女性を見ると、もちろん彼は、その女性がいったん裸になるとどうなるかを多少なりとも思い浮かべられる(ここでは、彼の医者としての経験が愛人としての経験を補ってくれる)。しかし、観念の大まかさと現実の正確さのあいだには、想像できないちいさな空隙が残っていて、その空隙が片時も彼の心をそっとしておいてくれないのである。それにまた、想像できないものの追求は女性の裸体の発見とともに終わるのではなく、さらに遠くへと突き進む。この女は服を脱ぐときにどんな顔をするのか? 性交しているときに、どんなことを言うのか? 喘ぎ声はどんな音調なのか? 絶頂の瞬間に、あの顔にどんな歪みが刻まれるのか?

同じことの繰り返しでは決してないものの探求だということの具体例。

「自我」の唯一性というものはまさに、人間存在がもっている想像できないもののなかに隠れている。ひとはすべての存在にあって同一のもの、それらに共通するものしか想像できない。個人の「自我」とは、一般的なものと区別されるもの、したがってあらかじめ見ぬかれも計算されもしない、他者のうちにあって、まず暴き、発見し、征服すべきものなのである。

「個人の「自我」とは、一般的なものと区別されるもの、したがってあらかじめ見ぬかれも計算されもしない、他者のうちにあって、まず暴き、発見し、征服すべきもの」ここの「征服すべきもの」という点は一般的な感覚ではないと思うんだけれど、とりあえずトマーシュはこう考える人物だということだろうし。

 この十年の医療活動のあいだ、もっぱら人間の頭脳に取り組んできたトマーシュは、「自我」ほど捉えがたいものはないことを知っていた。ヒトラーとアインシュタインのあいだ、ブレジネフとソルジェニーツィンのあいだには、差異よりも類似のほうがずっと多くある。もしひとが算術的にそれを表現できるとするなら、彼らのあいだには異なったものが百万分の一、似たものが九十九万九千九百九十九あるだろう。

さっきも触れた「自我」について。

 トマーシュはその百万分の一を発見し、それをつかまえてやりたいという欲望に取りつかれているのである。そして彼の目には、それこそが女たちへの強迫的な欲望の意味だと見える。彼は女たちに取りつかれているのではない。彼女たちがそれぞれもっている、想像できないもの、言い換えれば、ひとりの女性を他の女性たちから区別する、あの百万分の一の異なったものに取りつかれているのである。

そしてここでトマーシュの猟色(「女たちへの強迫的な欲望」)の意味が分析される。

「彼女たちがそれぞれもっている、想像できないもの、言い換えれば、ひとりの女性を他の女性たちから区別する、あの百万分の一の異なったものに取りつかれている」の「あの百万分の一の異なったもの」は「自我」とおきかえることができる。

つまりはこう――彼女たちがそれぞれもっている、想像できないもの、言い換えれば、ひとりの女性を他の女性たちから区別する〈自我〉に取りつかれている。

さらにトマーシュの目的を整理するとこうなるのではないか。

――彼女たちがそれぞれもっている、想像できないもの、言い換えれば、ひとりの女性を他の女性たちから区別する〈自我〉を発見しつかまえたいというのが、トマーシュの猟色の本質である――。

(おそらく、外科学への彼の情熱はここで、女たらしとしての情熱に重なるのかもしれない。彼は恋人たちと一緒のときでさえ、想像上のメスを離さないのだ。彼は彼女たちの内部深くに埋もれているなにか、そのためには表面の外皮を引き裂かねばならないなにかを捉えたいのだ)

メタファー。

 もちろん、ひとは、なぜ彼がその百万分の一の異なったものを性の経験だけに求めようとするのか自問してもかまわない。たとえば、彼は彼女たちの態度、食物の趣味や審美的な好みなどに、それを見つけられないのだろうか?
 もちろん、その百万分の一の異なったものは、人間生活の他のすべての分野にも見られる。ただ、それはいたるところで公然と示されているものだから、わざわざ発見する必要も、メスも必要ではない。ある女性がお菓子よりもチーズが好きであり、別の女性がカリフラワーが苦手だということは、たしかに独創性の徴しではある。だが、そんな独創性はまったく無意味で取るに足らないものであり、そんなものに関心をもち、なにかしらの価値をさがしても時間のうだであることはただちにわかる。
 百万分の一の異なったものが貴重なものとして現れるのは、ただ性の経験においてのみなのである。なぜなら、それは公的には近寄りがたく、征服しなければならないものだから。また半世紀まえには、その種の征服には大変な時間が必要とされ、征服されたものの価値は征服するのに費やされた時間によって測られていた。こんにちでも、征服の時間はかなり短縮されたとはいえ、性の経験は依然として、女性の自我が隠されている銀の箱のように思われるのだ。

そしてさらに、トマーシュにとって性の経験が特別な意味を持つことについて

さっき触れたけれど、やっぱりここはあくまでトマーシュにとっては、だと思う。

そして、トマーシュを実例とした猟色分析のまとめ

 だから、彼を女性の狩猟(ハント)に投じさせるのは、性的な快楽への欲望ではなく(性的な快楽はいわば、おまけとしてやってくる)、世界を捉えたい(横たわっている世界の身体をメスで開きたい)という欲望だったのである。

根幹部分だけを抜き出すとこう――だから、彼を女性の狩猟に投じさせるのは、世界を捉えたいという欲望だったのである

女好きの二つの形

さらに、トマーシュの猟色(女好き)について語った後で、クンデラはこの傾向には二つの範疇に分類できる、と続ける。

トマーシュはその片方(後者)にあたるという。

 多数の女性たちを追いかける男性は容易にふたつの範疇に分けられる。一方の者たちはみずからの夢、つまり女性についての主観的な観念をあらゆる女性にもとめる。他方は客観的な女性世界のかぎりない多様性を捉えたいという欲望に突き動かされている

まずは片方(トマーシュと違う方)から。

 前者の妄執はロマンティックな妄執である。彼らが女性たちのうちにさがすのは彼ら自身であり、彼らの理想なのだから。彼らはつねに幻滅する。なぜなら、周知のように、それはけっして見出すことができないものだから。彼らを女から女へと駆り立てる幻滅は、彼らの移り気に一種のメロドラマ的な言い訳をあたえ、感傷的な多くの婦人たちは彼らの頑固な一夫多妻生活を感動的だと思う。

こちらのほうの立場は、プルーストのこの辺にほぼ合致すると思ったり。

プルースト(失われた時を求めて)だとこんな。

そんなふうに気ばらしが好きな点で、アルベルチーヌがはじめのころのジルベルトにどこか似ているとすれば、それはわれわれがつぎつぎに愛してゆく女のあいだに、発展はありながらもある種の類似が存在するからで、そうした類似は、われわれの気質が一定したものをもっていることによるのである。女を選択するのは、じつはこの気質なのであって、われわれとは正反対であると同時にわれわれを補ってくれるような女、すなわちわれわれの官能を満足させると同時にわれわれの心をなやますに適しているような女を選び、そうでない女をすべてふるいおとしてしまうのだ。そんなふうに選ばれる女たちは、われわれの気質の生産物、われわれの感受性の映像、倒影、「陰画(ネガ)」である。

(プルースト「失われた時を求めて」花咲く乙女たちのかげに)

で、クンデラはそれ以外の猟色もあるとトマーシュが属する範疇を追加する。

 もう一方の妄執は無信仰的(リベルダン)な妄執であり、女性たちはそこになんら感動的なものも見ない。その男は女性たちに主観的な理想を投影しないため、すべてが彼の興味を惹き、なにも彼を幻滅させることはないのだ。……

トマーシュにとってのテレザと、作者にとってのテレザ

トマーシュにとってのテレザは「客観的な女性世界のかぎりない多様性を捉えたいという欲望に突き動かされている」だけにあてはまる存在というわけでもないけれど。
それについては今回はいいとして。

ただクンデラは、テレザの「自我」や実存を、もう一人の主人公としてトマーシュと同程度に丁寧に描いていたり。

で、そこで描かれるテレザは「百万分の一の異なったものが貴重なものとして現れるのは、ただ性の経験においてのみなのである」の枠におさまっているわけでは全然ないし。

こっちもメモしたいけれど、とりあえず今回はいいや。

まとめ

てことで、まずは今まで謎、不可解だったもの(猟色の構造とか)をクンデラさんがトマーシュによって解き明かしてくれたので、世界がひとつ解明された感じな幸福感はあったり。

あと、ここで引用したのは集英社じゃなくて河出書房新社の全集版の方。

ていうか、英語版ペーパーバックの表紙はセンスもいいし、ぜったいこっちがいいと思う(売れ行き的話は別)。

The Unbearable Lightness of Being

犬はカレーニンという名前(メス)で、テレザのほうにとって特に重要だったり。

わんこ小説としてもいいとおもうけれど、それは別記事で書く。

集英社文庫のカバーデザインはおしゃれっぽいけれど、古くさいし、絶対微妙だと思う(もう一度文句を言いたい。これのせいでちゃんと読むのが遅れた気がするから)。

とりあえず終わり。









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