2016.02.23
5317文字 / 読了時間:6.6分程度
三国志

最近、張羨の名前をツイッターで見かけて、誰だっけ、とか思ってたけど。
よく考えたら、一応昔ブログに自分で書いてたのを思い出したり。

ブログ移転中だけれど、そのまま移転するにはリンク先行方不明になっているリンクが結構入っていて読みづらいので、移転ついでに、張羨と博望坡の戦いの2記事についてはとりあえずまとめてみることに。

正史のほうの博望坡の戦い?

博望坡の戦いは演義等での扱いがいいこともあって有名な戦いだけれど、演義や平話については今回はいいやってことで。

先主伝の博望坡の戦い

まずは先主(劉備)伝から。

先主伝

曹公既破紹(200),自南擊先主。
先主遣麋竺、孫乾與劉表相聞,
表自郊迎,以上賓禮待之,益其兵,使屯新野(201)。
荊州豪傑歸先主者日益多,表疑其心,陰御之。
使拒夏侯惇、於禁等於博望。
久之,先主設伏兵,一旦自燒屯偽遁,
惇等追之,為伏兵所破。

曹公は袁紹を撃破(200)したのち、みずから南下して先主を攻撃した。
先主は麋竺・孫乾を劉表のもとにやり、挨拶させた。
劉表はみずから〔先主を〕郊外まで出迎え、上客に対する礼をもって待遇し、その軍兵を増やしてやり、新野に駐屯させた(201)。
荊州の豪傑のうち先主に心を寄せる者が日ごとに増してきたため、劉表は心に疑念をもち、ひそかに防備を設ける一方、夏侯惇・于禁らを博望の地で阻ませた。
しばらくして、先主は伏兵を設け、ある日みずから自軍の屯営を焼きはらって逃走と見せかけた。
夏侯惇らは追い討ちをかけ、伏兵によって撃破された。

てことで、先主伝には、夏侯惇や于禁の名前や博望の地名入りで、曹操配下との戦いについて触れられていたり。

武帝紀の博望坡の戦い

一方、武帝(曹操)紀のほうはこう。

(武帝紀)

六年
……
使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,為都所破。
公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。

六年(201)……
公は劉備の征討に南方に向った。劉備は公が自身で来ると聞くと、劉表のもとに逃走し、共都らはちりぢりになった。

この「公南征備。備聞公自行,走奔劉表」辺が、先主伝の「曹公既破紹,自南擊先主」相当な様子。

ただ、ここには劉備と戦ったことが書かれてなかったり。

では、武帝紀には博望坡の戦いについて書かれていないのかとも思えてくるけれど、劉備の名前はないけれど、劉表の名前が出てくる箇所。
劉備は当時劉表の下にいるから劉表と書いてもおかしくはないし。

(武帝紀)

八年(203)
……
八月,公征劉表,軍西平。
公之去鄴而南也,譚、尚爭冀州,譚為尚所敗,走保平原。

八月、公は劉表を征討し、西平に駐留した。

これは203年の出来事なので、劉備が劉表を頼った201年から2年後のこと。

先主伝では劉備が劉表を頼ることとその後の博望坡の戦いの戦いとは、ひとつづきのようにみえるけれど、武帝紀でみると、時期的には少なくともすぐとはいえない(2年ある)時間をおいた出来事だった様子。

李典伝の博望坡の戦い

李典伝では、更に正史博望坡の戦いが203年の「公征劉表,軍西平」関連だっただろうことが補強される。

李典伝

劉表使劉備北侵,至葉,太祖遣典從夏侯惇拒之。
備一旦燒屯去,惇率諸軍追擊之,典曰:
「賊無故退,疑必有伏。南道狹窄,草木深,不可追也。」
惇不聽,與于禁追之,典留守。
惇等果入賊伏里,戰不利,典往救,備望見救至,乃散退。
從圍鄴,鄴定(204),

劉表が劉備を使って北方に侵入させ、葉まで来た。
太祖は李典に命じ夏侯惇につき従わせて彼を防がせた。

劉備はある朝、屯営を焼いて去った。夏侯惇が諸軍をひきいて彼を追撃しようとすると、李典はいった、
「賊が理由もなく退いたからには、伏兵があると疑われます。南道はせまく、草木が深く、追ってはいけません」
夏侯惇はききいれず、于禁とともに彼を追い、李典が留まって守備をした。
夏侯惇らははたして賊の伏兵の中に入りこみ、戦闘は不利だった。李典は救援にかけつけた。
劉備は救援が来たのを望見したので、ちりぢりになって退却した。
つきしたがって鄴を包囲した(204)。

李典伝では李典の活躍の一つとして、先主伝とほぼ似たような内容が書かれていたり。
夏侯惇、于禁がいること、劉表のところにいる劉備と戦ったこととか。

で、気になるのは李典が、この劉備との戦いの後の李典について「從圍鄴,鄴定」と書かれていること。
つまり、ここで触れられている戦いは、曹操が鄴を落とす以前ということにるのはほぼ確か。(この書き方だし)

というわけで、正史の博望坡の戦いは、少なくとも演義にあるような諸葛亮が劉備に仕えた後の出来事ではないことはないだろう、ということに。

正史の博望坡の戦いは203年でいいのか

もう少し考えてみる。

要するに武帝紀の「(203)公征劉表,軍西平」が、先主伝や李典伝にある戦い(劉備と夏侯惇、于禁)と同一なのかということなんだけど。

関連地名の確認

登場する地名はこう。

先主伝……博望
武帝紀……西平
李典伝……葉

地図をみてみるとこんな。

hakuboumap

三国志地図

欲張って周辺も含まれるようにトリミングしたけれど、全部のってる(中央附近)。

大雑把にいうと。
襄陽の北に新野があって、新野の北に宛があって、宛の北東に博望があって葉は博望の北東、ここまでが荊州。
博望の東北東の豫州に入ったところに西平、こんな感じかな。

ついでに、劉備は劉表を頼る前は汝南を荒らしてた(「使劉備略汝南,汝南賊共都等應之」)けれど、地図を見ると州はまたがってるけど、汝南もそう遠くはないかんじ。

正史仕様の博望坡の戦いは203年でいいはずという結論

というわけで、正史仕様博望坡の戦いの戦いについての、当面の個人的結論。

――正史版博望坡の戦いは203年に行われた(※演義博望坡の戦いとは年代が異なる)

こんなかんじかな。

では、正史版博望坡の戦いは何故203年に行われたのか?

ただ、203年ということにすると、多少気になるのが、何故ということ。

曹操は、袁紹(というか202年に袁紹は死んでるから袁紹の子)と戦っていた頃。
204年にその本拠地鄴をようやく(官渡の戦いは200年だからその4年後)落とす。

というわけで、河北の方で忙しい時期のはず。

だからこそ、曹操ではなくて夏侯惇や于禁(と李典)なんだろうけれど。

ただ、203年という年に、なぜ曹操は劉表を攻めたのかの理由がいまいち曖昧な気はしたり。

博望坡の戦いは、曹操が劉表に反旗を翻した長沙太守張羨を助けるため?

で、個人的に今のところ一番これじゃないかなと思うのが、長沙太守張羨絡みなんじゃないかという解釈だったり。

てことでまずは張羨について見てみる。

張羨って誰

出てくるのはここ。

●ちくま索引-張羨

①507、510(劉表伝)
③463、464(桓階伝)

索引みても、出番少ない。劉表伝と桓階伝に登場する。

まずは劉表伝のほう。

劉表伝

長沙太守張羨叛表、
表囲之連年不下。
羨病死、長沙復立其子懌、表遂攻並懌、
南収零、桂、北據漢川、地方数千里、帶甲十余万。

霊帝が崩御されたとき(189)、王叡の後任として荊州刺史となった。
……
天子が許に遷都されたさい(196)、劉表は使者を派遣して貢物を献上することはしたが、しかし、北方の袁紹と同盟を結んでいた。
……
長沙太守の張羨が劉表に叛旗をひるがえした
劉表はこれを包囲したが幾年も陥落させられなかった。
張羨が病死すると、長沙ではまたその子の張懌を立て〔て太守とし〕た。
劉表はそのまま攻撃を続けて張懌(長沙)を併呑した。
南方は零〔陵〕・桂〔陽〕を手中におさめ、北方は漢川を抑え、その領地は数千里、武装兵は十万以上におよんだ。


劉表伝注

英雄記曰、
張羨、南陽人。
先作零陵、桂陽長、甚得江、湘間心、然性屈強不順。
表薄其為人、不甚礼也。羨由是懐恨、遂叛表焉

『英雄記』にいう。
張羨は、南陽郡の人である。
以前、零陵郡と桂陽郡の長となり、長江・湘江一帯の民心をたいそうつかんでいた。
しかしながら、強情で人に屈することがなかった。劉表は彼の人物を軽んじ、あまり礼遇しなかった。張羨はこのために遺恨を抱き、けっきょく劉表に叛旗をひるがえしたのである

とりあえず、博望坡の戦いに関係ありそうなのは「長沙太守張羨叛表」の部分。

ただ、劉表伝だけでは微妙なので、桓階伝をみていく。

張羨と曹操の関係?

桓階伝

桓階字伯緒、長沙臨湘人也。
仕郡功曹。
太守孫堅挙階孝廉、除尚書郎。父喪還郷里。会堅撃劉表戦死、階冒難詣表乞堅喪、表義而与之。
后太祖与袁紹相拒於官渡(200)、表挙州以応紹。
階説其太守張羨曰、
「夫挙事而不本於義、未有不敗者也。故斉桓率諸候以尊周、晋文逐叔帶以納王。今袁氏反此、而劉牧応之、取禍之道也。明府必欲立功明義、全福遠禍、不宜与之同也。」
羨曰、「然則何向而可?」
階曰、「曹公雖弱、仗義而起、救朝廷之危、奉王命而討有罪、孰敢不服?今若挙四郡保三江以待其来、而為之内応、不亦可乎!」
羨曰、「善。」
乃挙長沙及旁三郡以拒表、遣使詣太祖。太祖大悅。会紹与太祖連戦、軍未得南。
而表急攻羨、羨病死。
城陷、階遂自匿。
久之、劉表闢為従事祭酒、欲妻以妻妹蔡氏。
階自陳已結、拒而不受、因辞疾告退。
太祖定荊州、聞其為張羨謀也、異之、闢為丞相掾主簿、遷趙郡太守。

桓階は字を伯緒といい、長沙郡臨湘県の人である。郡に仕官して功曹となった。
……
のちに太祖が袁紹と官渡において対峙すると(200)、劉表は州をあげて袁紹に呼応した。桓階はその太守張羨に進言した。
……
張羨、「そうなれば、どちらに向えばよかろう」
桓階、「曹公は弱いとはいえ、道義に従って起ちあがり、朝廷の危機を救い、王命をかしこみ罪ある者を討伐しておりまして、誰があえて服従しないでおれましょうか。今もし四つの郡をこぞり三つの江を保持してその到来を待ち、彼のために内応するならば、よろしいではございませんか」
張羨、「なるほど」
そこで長沙および三郡をこぞって劉表に抵抗し、使者を太祖のもとに派遣した。太祖はたいそう喜んだ。
たまたま袁紹と太祖が戦闘を続けていたため、〔太祖の〕軍はまだ南進できずにいた。

ところが劉表は急に張羨を攻撃し、張羨は病死した。城は陥落し、桓階はかくて身をかくした。しばらくたって劉表は召し出して従事祭酒とし、妻の妹の蔡氏をめあわせたいと思った。
桓階はすでに結婚していると説明し、拒否して受けつけず、それを機会に病気を理由に退官した。
太祖は荊州を平定すると、彼が張羨のために画策したと聞いて、彼を評価し、召し出して丞相掾主簿とし、趙郡の太守に昇進させた。
……

長沙太守の張羨は、官渡の戦いの時に袁紹と曹操とどちらにつくべきか部下の桓階に相談して、桓階が曹操がいいと進言したのでそれをいれて、劉表(袁紹と組んだ)に反旗を翻して曹操につくことにしていたり。

曹操はこれを大いに喜んだらしい(乃挙長沙及旁三郡以拒表、遣使詣太祖。太祖大悅)。

203年の曹操と劉表の関係?

で、問題はここ。

会紹与太祖連戦、軍未得南

「軍未得南(軍はまだ南進できずにいた)」とあったり。

これは、時期的(会紹与太祖連戦)に考えて、博望坡の戦いで劉備に退けられたから「軍未得南(軍はまだ南進できずにいた)」――と考えると、色々辻褄があうんじゃないかなとか。

つまり、武帝紀の「(203)公征劉表,軍西平」は、先主伝や李典伝の博望坡の戦いであるだけでなく、またこの桓階伝の「軍未得南」に繋がるものでもあったんじゃないかなとか。

正史仕様博望坡の戦いに関して、結論

とりあえず、博望坡の戦いの流れの現時点での解釈を整理するとこんな感じ。

曹操と袁紹が官渡で戦っているころ(200)、長沙太守張羨は曹操につくか袁紹につくか悩んだ。
一方その頃、劉備は劉表を頼った(201)。
曹操は官渡の戦い後も、袁紹(ならびにその後継者)との戦いで忙しかった。
またその頃、張羨は曹操につくことを決断、袁紹についた劉表に反旗を翻した。劉表は張羨を包囲した。
曹操は張羨を援助するために夏侯惇、于禁を派遣したが、劉表の下にいた劉備によって退けられた(博望坡の戦い)(203)。

個人的にはわりとすっきりするんじゃないかとは思ったり。

まとめ

そもそもこんなことを調べてたのは徐庶について調べてたからのような。

全然徐庶には関係なくなったけれど、まあそれはそれで。

この記事は以前のブログの記事2つをもとに現在の考えに多少書換えたものだけど。

前のブログ記事は、リライトしてあるわけだし一応残しておこうかな。

この流れでいらないものは(桓階が蔡氏の妹との結婚をすすめられた話関連)削ってあったり。

それは、そのうちまた別の記事で扱いたい。

忘れないうちに。

それにしても、こうやって整理すると、内容は整理されるかもしれないけれど、自分の興味の流れは見えにくくなったり。
まあどっちを優先するかといえば、前者でいいと思うから整理するけれど。

とりあえずおわり。


(前のブログの記事)
http://3594.atehs.net/archives/529
http://3594.atehs.net/archives/527

※移転が終わったら非表示にするか考え中





三国志





Comment


Memo.Medamayaki

三国志他歴史、小説、ゲーム等に関するメモ用ブログ。

TEMPLATE:Ateh's theme

×

Status


苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:

Setting

苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身地:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:





× 
×

Recent Posts

×

Custom Menu