博望坡の戦い(正史仕様)について前回の記事で考えてみたり。
演義の博望坡の戦いは、諸葛亮の初陣として存在感upしているけれど、時期は曹操が河北を制していよいよ劉表を攻める寸前に移されていたり。
これはこれで演義の流れとしては整理されて盛り上がるからいいんだけど。
今回気になるのは、劉備時代の徐庶についてだったり。
記述少ないけれど、改めて整理してみる。
徐庶、劉備時代までを振り返る
徐庶索引
まずは正史で登場するのはここ。
徐庶(徐福)
③15(程昱伝注)、④52、57、⑤102,103,105,109,110,161,194,248,310
③
15(程昱伝注)ひきあい(母親)
④
52,57(裴潜伝注)『魏略』の列伝のこと
⑤
102,103,105,109,110,161,(諸葛亮伝)
194,(ホウ統伝)
248,(董和伝)諸葛亮の言葉の中
310(向朗伝注)親しかった
魏略には徐庶伝あったのに、陳寿が書かないからこんな感じに散らばって色々めんどくさいことに……。
徐庶が荊州に来るまで
若いころ
(諸葛亮伝注、魏略)
魏略曰:庶先名福,本單家子,少好任俠擊劍。
中平(184-189)
(諸葛亮伝注、魏略)
中平末,嘗為人報讎,白堊突面,被發而走,為吏所得,問其姓字,閉口不言。吏乃於車上立柱維磔之,擊鼓以令於市鄽,莫敢識者,而其黨伍共篡解之,得脫。於是感激,棄其刀戟,更疏巾單衣,折節學問。始詣精舍,諸生聞其前作賊,不肯與共止。福乃卑躬早起,常獨掃除,動靜先意,聽習經業,義理精熟。遂與同郡石韜相親愛。
初平(190-193)
(諸葛亮伝注、魏略)
初平中,中州兵起,乃與韜南客荊州,到,又與諸葛亮特相善。
というわけで初平中(190-193)に、兵乱を逃れて荊州にきた感じ。
徐庶はもと潁川の人だから、潁川はいろいろ戦乱に巻き込まれているし、その辺が原因かも。
今回は深く追求しない。
荊州時代の徐庶
初平(190-193)
(諸葛亮伝注、魏略)
初平中,中州兵起,乃與韜南客荊州,到,又與諸葛亮特相善。
建安(196-220)
(諸葛亮伝注)
魏略曰:
亮在荊州,以建安初與潁川石廣元、徐元直、汝南孟公威等俱游學,三人務於精熟,而亮獨觀其大略。每晨夜從容,常抱膝長嘯,而謂三人曰:「卿三人仕進可至刺史郡守也。」三人問其所至,亮但笑而不言。後公威思鄉里,欲北歸,亮謂之曰:「中國饒士大夫,遨遊何必故鄉邪!」
こんな感じで荊州に来てから、諸葛亮と親しくなったり。
それにしても、当時の歴史家の人って書くときには年代くらい抑えてから書いてると思うんだけど、この魏略の徐庶関連、「中平末」「初平中」「建安初」と頑なに数字を出さないのは嫌がらせなの何なのって感じなんだけど、これ何か意味あるのかな……。
劉備時代の徐庶――新野時代の劉備
そしてここからが今回の本題。
(諸葛亮伝)
時先主(劉備)屯新野。
徐庶見先主,先主器之,謂先主曰:「諸葛孔明者,臥龍也,將軍豈願見之乎?」そのころ先主(劉備)は新野に駐屯していた。徐庶が先主と会見し、先主は彼を有能な人物だと思った。
徐庶は先主に向かって、「諸葛孔明という男は臥龍です。将軍は彼と会いたいと思われますか」とたずねた。
この「時先主屯新野」は、先主伝ではこんな。
(先主伝)
曹公既破紹(200),自南擊先主。
先主遣麋竺、孫乾與劉表相聞,
表自郊迎,以上賓禮待之,益其兵,使屯新野(201)。
劉備が劉表を頼ったのが201年なのは先主伝には書いてないけれど、武帝紀から。
武帝紀
六年
……
使劉備略汝南,汝南賊共都等應之。遣蔡揚擊都,不利,為都所破。
公南征備。備聞公自行,走奔劉表,都等皆散。六年(201)……
公は劉備の征討に南方に向った。劉備は公が自身で来ると聞くと、劉表のもとに逃走し、共都らはちりぢりになった。
というわけで、この「時先主屯新野。徐庶見先主,先主器之」の時期については、201年以降というのは確定。
とはいえ、劉備がこの201年だけ新野に駐屯していたわけでもないだろうから、ある程度幅はありそう。
曹操が荊州に攻めてきた時、劉備はひっそり新野ではなくて、別の場所にいたり。
先主伝
先主屯樊,不知曹公卒至,至宛乃聞之,遂將其眾去。
地図的にいっても、新野よりだいぶ南で、曹操の本拠地許からは、新野よりも離れた感じ。
(三国志地図)
ただこれについては、先主伝のこの部分。
先主伝
十二年(207),曹公北征烏丸,先主說表襲許,表不能用。
これを、劉表が退けたときに、許から離れた樊へ劉備を移したのかなとも。
てことで、劉備が新野にいたのは、201-207年のあいだなんじゃないかなあとは思ったり。
つまり、「時先主屯新野。徐庶見先主,先主器之」の時期を特定したかったんだけども、「時先主屯新野」だけでは結構時期が狭まらないなあという感じではあったり。
とはいえ「時先主屯新野」を、「劉備が新野に駐屯していた時」ではなく、「劉備が新野に駐屯した時」、として読めば201年頃に設定できるから、創作的にはそう解釈した、ってことで済ませてもいいかも。
年代についてはこれ以上無理そうなので、別のことを考えてみる。
劉備時代の徐庶の経歴?
とりあえず、史実仕様で劉備に仕えていたころの徐庶が何をしていたか考えてみたかったり。
徐庶が劉備に仕えたのはいつ頃かをまず考えてみることに。
そして、そのヒントになりそうなのがこれかも。
荊州豪傑の一人が徐庶という可能性?
先主伝
曹公既破紹,自南擊先主。先主遣麋竺、孫乾與劉表相聞,表自郊迎,以上賓禮待之,益其兵,使屯新野。
荊州豪傑歸先主者日益多,表疑其心,陰御之。
使拒夏侯惇、於禁等於博望。久之,先主設伏兵,一旦自燒屯偽遁,惇等追之,為伏兵所破。
ここに「荊州豪傑歸先主者日益多」という記述があったり。
荊州の豪傑って誰だろうと思うけれど。
徐庶をこの劉備に帰順した「荊州豪傑」の一人にいれてもいいのでは、とも。
徐庶は撃剣の使い手だったし?
(参考)平話の劉備と徐庶
ちなみに三国志平話の、劉備や徐庶はこれはこれで楽しそう……。
●先主檀渓を跳ぶ
さて、先主は新野に入って太守となり、毎日、徐庶と酒を飲んでいたが、一日、徐庶が言うのに、
「わたしが見るところ、この新野、今日明日にも死人の山、血の海となりましょう」
劉備は新野に来て以来、毎日徐庶と酒を飲んで過ごしていたらしい……。
閑話休題。
徐庶が荊州豪傑に該当するなら、徐庶が劉備に仕えたのは博望坡の戦い前になるはず
「荊州豪傑歸先主者日益多」の前後からもう少し考えてみる。
この「荊州豪傑歸先主者日益多」という記述は博望坡(博望)の戦いの前に書かれているから、博望坡の戦いの時には、この荊州豪傑に該当する人々は、劉備の下にいることになる。
つまり、博望で劉備が、夏侯惇、于禁と戦った時には、荊州の人材も劉備の下にいただろうということだけど。
徐庶が荊州豪傑に該当すると考えるなら、徐庶はまた博望の戦いに参加していても、それはそれで充分可能性はあると思ったり。
劉備時代の徐庶の功績の可能性を探る
三国志創作的に、劉備時代の徐庶の功績の可能性を探りたいのは確か。
てことで。
徐庶は演義では曹仁の八門金鎖の陣を見破ったり大活躍するのに、史実的には特に何も功績が残されていなかったりするけれど。
それは、可能性もないということではない、といえるのではないか。
演義、平話の徐庶の活躍について確認
ちなみに、演義と平話の徐庶の活躍についてはこんな。
演義(第36回)
かくて翌る日、陣太鼓とともに出陣して、一つの陣型をととのえると(曹仁)、玄徳に使者をやって、
「わが軍の陣型をご承知か」
と言わせた。そこで単福が高みに上って敵陣を眺めたが、玄徳に言った。
「これは『八門金鎖の陣』と申すもの。八門とは休・生・傷・杜・景・死・驚・開であり、生門・景門・開門より攻めこめば当方に利がござりますが、傷門・驚門・休門よりはいれば傷つき、杜・死の両門よりはいれば生きては出られませぬ。ここで見たところ、いかにも八門見事にととのいおりまするが、中央に弱点がございます。東南角の生門より駆けこんで、真西の景門へ駆け抜けますれば、かの陣は必ず乱れます」
平話
(先主檀渓を跳ぶ)「皇叔、ご安心ください。某が曹子孝を一兵余さず平らげてご覧に入れましょう」
と趙雲を呼び、耳元でひそひそと一計を授けると、皇叔を伴って南門に出、
「ここが吉方に当たります」
と、その場で髪を捌いて裸足になり、一皿の供物をささげ、神に祈ってつむじ風を借りれば、趙雲が手勢をひきい城を取り囲んで火矢を射込んだので、四方、火の海となって、曹操軍は大敗、焼け死んだ者数知れず、曹子孝は千にも足りない生き残りをひきいて逃げ帰った。
とりあえず、演義、平話はこの辺で。
徐庶は劉備のところでそれなりに重用されていた可能性
功績が特に残されていない→特に目立った存在ではなかったという風に考えることもできるけれど。
とりあえず、諸葛亮伝にはこんな風に書いてあったり。
(諸葛亮伝)
時先主屯新野。徐庶見先主、先主器之、謂先主曰、「諸葛孔明者、臥龍也、将軍豈願見之乎?」
先主曰、「君与倶来。」庶曰、「此人可就見、不可屈致也。将軍宜枉駕顧之。」由是先主遂詣亮、凡三往、乃見。
……
先主在樊聞之、率其衆南行、亮与徐庶並従、為曹公所追破、獲庶母。
庶辞先主而指其心曰、「本欲与将軍共図王覇之業者、以此方寸之地也。今已失老母、方寸乱矣、無益於事、請従此別。」
遂詣曹公。そのころ先主(劉備)は新野に駐屯していた。徐庶が先主と会見し、先主は彼(徐庶)を有能な人物だと思った。
徐庶は先主に向かって、「諸葛孔明という男は臥龍です。将軍は彼と会いたいと思われますか」とたずねた。先主が、「君、つれてきてくれ」というと、徐庶は、「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れてくることはできません。将軍が車をまげて来訪されるのがよろしいでしょう」といった。その結果、先主は諸葛亮を訪れ、およそ三度の訪問のあげく、やっと会えた。
……
諸葛亮と徐庶はともに随行したが曹公に追撃されて敗北し、徐庶の母が捕虜となった。徐庶は先主に別れを告げ、その胸を指さしていった、「もともと将軍とともに王業・覇業を行うつもりでいたのは、この一寸四方の場所(心臓)においてでした。いま、すでに老母を失って、一寸四方は混乱しております。事態に対処するのに利益になりません。これでお別れしたいと存じます」かくて曹公のもとへ赴いた。
ここから導き出されるのは、こんな感じ?
・劉備は徐庶を有能な人物だと考えた
・劉備は徐庶の意見を尊重して、その結果自ら諸葛亮のもとに出向いた
・徐庶は劉備と別れる時に、共に王覇の業を行うつもりだったと、劉備に言った(→重用されていないならこのシチュエーションは不自然)
というわけで、少なくともこの辺から徐庶がそれなりに劉備に重用されていたようなことは推測できるといえるのではないか。
徐庶は劉備のところでそれなりに重用されていた可能性、その二
また、別のほうから考えてみても。
程昱伝の注より。
(程昱伝注)
徐眾評曰:
允於曹公,未成君臣。母,至親也,於義應去。昔王陵母為項羽所拘,母以高祖必得天下,因自殺以固陵志。明心無所系,然後可得成事人盡死之節。衛公子開方仕齊,積年不歸,管仲以為不懷其親,安能愛君,不可以為相。是以求忠臣必於孝子之門,允宜先救至親。
徐庶母為曹公所得,劉備乃遣庶歸,欲為天下者恕人子之情也。曹公亦宜遣允。
徐衆というのは、三国評の著者、晋の人。
この人が劉備と徐庶の出来事をこんな風に褒めていたり。
もし、徐庶が劉備のところで全く冷遇されていて無名な存在だったとしたら、劉備が徐庶が母のために去ることを認めたことに価値を見出す理由はなにもないのではないか。
可能性としてあり得る徐庶の功績
正史で徐庶の功績となっているものはこれ。
・諸葛亮を推挙(207)
それに加えて可能性として、徐庶の功績にすることもできるものは、こんな感じ?
・博望坡の戦いの勝利(203)
・劉備が劉表に進言した許(曹操本拠地、兼献帝の居場所)攻略計画の発案(207)
この二つを徐庶の功績、ないしは徐庶も関わったこととして扱えば、劉備時代の徐庶(非演義系仕様)も、それなりに説得力ある存在感が出てくるような。
まとめ
徐庶といえば、劉備時代のイメージの方が強いけれど、その割には演義はともかく史実の方は諸葛亮を紹介しただけ、みたいなところは残念だったり。
とはいえ、それ以外何もしていないよりは、それ以外にしたことの記録が残されていない確率のほうが高いだろうという痕跡(劉備の高評価の痕跡)も残されているわけで。
なら、徐庶は劉備時代劉備にかなり厚遇されていて功績も色々あったけど単に記録が残っていない、と考えるほうが色々辻褄はあうんじゃないかなとも思ったり。
あと、博望坡の戦いというふうに「博望坡」と言っているのは、そのほうがメジャーだからってことで。
おわり。