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→鍾会(事典)。
鍾会略歴
225-264。
鍾会(しょうかい)、字は士季(しき)。潁川長社の人。父は鍾繇、母は張昌蒲。兄に鍾毓。
→鍾会伝。
鍾会資料
以下、とりあえず資料置き場。
『三国志』鍾会(ちくま索引)
①
319
327
334
338
358
359
361
365
403②
221
227
254
263
469③
262
268
404
406
407
456
457④
51
87
112
274
275
279
280
283
286(鍾会伝)⑤
84
86
99
143
173
306
378
413
414
426
427
429-33
436
448
482
①
319──高貴郷公紀注(司馬師に、曹髦は才は曹植…とか進言)
327──高貴郷公紀(曹髦の議論をまとめる)
334──高貴郷公紀注(曹髦が鍾会、裴秀らと討論会)
338──高貴郷公紀(諸葛誕の乱、司馬師に随行)
358──陳留王紀(詔勅、蜀討伐の。蜀で勝利)
359──陳留王紀(司徒、鍾会の乱)
361──陳留王紀(詔勅、鍾会の反乱計画の凶悪さ)
365──陳留王紀(鍾会の反乱をふれまわって死んだ張修のこと)
403──明元郭皇后伝(皇太后の命令に仮託して反乱)②
221──夏侯玄伝注(夏侯玄の取り調べの時になれなれしくしたこと)
227──夏侯玄伝注(許允の子供を観察しにいったこと)
254──荀彧伝注(荀融が、ともに議論したり)
263──荀彧伝注(荀顗が、鍾会の論を批判)
469──鍾毓伝(別に伝があるということ)③
262──許褚伝(許儀が鍾会に殺された)
268──龐徳伝注(鍾会が蜀平定後、龐徳の遺体を迎えると生きているようだった)
404──王粲伝(嵆康のところ、ケイ康に会って無視されたり、ケイ康を除くよう進言したり)
406-407──王粲伝注(裴松之が、ケイ康と鍾会のことについて)
456──傅嘏伝(鍾会が傅嘏の論を論述、鍾会に忠告)
457──傅嘏伝注(裴松之、傅嘏が夏侯玄と親しくせず鍾会と親しかったことについて考察)④
51──裴潜伝注(王戎、裴楷を推薦したこと)
87──高柔伝注(裴松之、鍾会の兄の進言をひきあいに)
112──辛毘伝注(辛憲英が、羊コに忠告したこと)
274-275──鄧艾伝(蜀討伐)
279──鄧艾伝(鍾会が鄧艾を告発)
280──鄧艾伝(鍾会の反乱)
283──鄧艾伝(段灼の鄧艾弁護の中)
286──鍾会伝★⑤
84──後主伝(蜀討伐)
86──後主伝(反乱)
99──劉璿伝(反乱)
143──諸葛亮伝(諸葛亮の霊廟詣で)
173──関羽伝注(龐会が鍾会に従って蜀討伐にきたこと)
306──霍峻伝注(羅憲について、鍾会が挫折したあと)
378──郤正伝(反乱)
413──蒋斌伝(漢城にきた)
414──蒋斌伝(蒋斌と手紙のやりとり)
426──姜維伝(上表の中、鍾会が準備中)
427──姜維伝(姜維へ手紙)
429-430──姜維伝(姜維降伏後、厚遇して一緒に反乱)
430-433──姜維伝注(姜維の進言、姜維の計画について、裴松之の意見)
436──姜維伝注(干宝の姜維評)
448──張翼伝(鍾会に降伏、随行して殺された)
482──楊戯伝注(鍾会の乱で殺された人のこと)
鍾会母伝
「夫人張氏,字昌蒲,太原茲氏人,太傅定陵成侯之命婦也。世長吏二千石。夫人少喪父母,充成侯家,修身正行,非禮不動,為上下所稱述。貴妾孫氏,攝嫡專家,心害其賢,數讒毀無所不至。孫氏辨博有智巧,言足以飾非成過,然竟不能傷也。及妊娠,愈更嫉妒,乃置藥食中,夫人中食,覺而吐之,瞑眩者數日。或曰:『何不向公言之?』答曰:『嫡庶相害,破家危國,古今以為鑒誡。假如公信我,眾誰能明其事?彼以心度我,謂我必言,固將先我;事由彼發,顧不快耶!』遂稱疾不見。孫氏果謂成侯曰:『妾欲其得男,故飲以得男之藥,反謂毒之!』成侯曰:『得男藥佳事,闇於食中與人,非人情也。』遂訊侍者具服,孫氏由是得罪出。成侯問夫人何能不言,夫人言其故,成侯大驚,益以此賢之。黃初六年,生會,恩愈隆。成侯既出孫氏,更納正嫡賈氏。」
「夫人性矜嚴,明於教訓,會雖童稚,勤見規誨。年四歲授孝經,七歲誦論語,八歲誦詩,十歲誦尚書,十一誦易,十二誦春秋左氏傳、國語,十三誦周禮、禮記,十四誦成侯易記,十五使入太學問四方奇文異訓。謂會曰:『學猥則倦,倦則意怠;吾懼汝之意怠,故以漸訓汝,今可以獨學矣。』雅好書籍,涉曆書,特好易、老子,每讀易孔子說鳴鶴在陰、勞謙君子、籍用白茅、不出戶庭之義,每使會反覆讀之,曰:『易三百餘爻,仲尼特說此者,以謙恭慎密,樞機之發,行己至要,榮身所由故也,順斯術已往,足為君子矣。』正始八年,會為尚書郎,夫人執會手而誨之曰:『汝弱冠見敘,人情不能不自足,則損在其中矣,勉思其戒!』是時大將軍曹爽專朝政,日縱酒沉醉,會兄侍中毓宴還,言其事。夫人曰:『樂則樂矣,然難久也。居上不驕,制節謹度,然後乃無危溢之患。今奢僭若此,非長守富貴之道。』嘉平元年,車駕朝高平陵,會為中書郎,從行。相國宣文侯始舉兵,眾人恐懼,而夫人自若。中書令劉放、侍郎衛瓘、夏侯和等家皆怪問:『夫人一子在危難之中,何能無憂?』答曰:『大將軍奢僭無度,吾常疑其不安。太傅義不危國,必為大將軍舉耳。吾兒在帝側何憂?聞且出兵無他重器,其勢必不久戰。』果如其言,一時稱明。會歷機密十餘年,頗豫政謀。夫人謂曰:『昔范氏少子為趙簡子設伐邾之計,事從民悅,可謂功矣。然其母以為乘偽作詐,末業鄙事,必不能久。其識本深遠,非近人所言,吾常樂其為人。汝居心正,吾知免矣。但當脩所志以輔益時化,不忝先人耳。常言人誰能皆體自然,但力行不倦,抑亦其次。雖接鄙賤,必以言信。取與之間,分畫分明。』或問:『此無乃小乎?』答曰:『君子之行,皆積小以致高大,若以小善為無益而弗為,此乃小人之事耳。希通慕大者,吾所不好。』會自幼少,衣不過青紺,親營家事,自知恭儉。然見得思義,臨財必讓。會前後賜錢帛數百萬計,悉送供公家之用,一無所取。年五十有九,甘露二年二月暴疾薨。比葬,天子有手詔,命大將軍高都侯厚加賵贈,喪事無巨細,一皆供給。議者以為公侯有夫人,有世婦,有妻,有妾,所謂外命婦也。依春秋成風、定姒之義,宜崇典禮,不得總稱妾名,於是稱成侯命婦。殯葬之事,有取於古制,禮也。」
檄蜀文
(鍾会伝)
往者漢祚衰微,率土分崩,生民之命,幾於泯滅。太祖武皇帝神武聖哲,撥亂反正,拯其將墜,造我區夏。高祖文皇帝應天順民,受命踐阼。烈祖明皇帝奕世重光,恢拓洪業。然江山之外,異政殊俗,率土齊民未蒙王化,此三祖所以顧懷遺恨也。今主上聖德欽明,紹隆前緒,宰輔忠肅明允,劬勞王室,布政垂惠而萬邦協和,施德百蠻而肅慎致貢。悼彼巴蜀,獨為匪民,愍此百姓,勞役未已。是以命授六師,龔行天罰,征西、雍州、鎮西諸軍,五道並進。古之行軍,以仁為本,以義治之;王者之師,有徵無戰;故虞舜舞干戚而服有苗,周武有散財、發廩、表閭之義。今鎮西奉辭銜命,攝統戎重,庶弘文告之訓,以濟元元之命,非欲窮武極戰,以快一朝之政,故略陳安危之要,其敬聽話言。 益州先主以命世英才,興兵朔野,困躓冀、徐之郊,制命紹、布之手,太祖拯而濟之,與隆大好。中更背違,棄同即異,諸葛孔明仍規秦川,姜伯約屢出隴右,勞動我邊境,侵擾我氐、羌,方國家多故,未遑修九伐之徵也。今邊境乂清,方內無事,畜力待時,並兵一向,而巴蜀一州之眾,分張守備,難以御天下之師。段谷、侯和沮傷之氣,難以敵堂堂之陳。比年以來,曾無寧歲,征夫勤瘁,難以當子來之民。此皆諸賢所親見也。蜀相壯見禽於秦,公孫述授首於漢,九州之險,是非一姓。此皆諸賢所備聞也。明者見危於無形,智者規禍於未萌,是以微子去商,長為周賓,陳平背項,立功於漢。豈晏安酖毒,懷祿而不變哉?今國朝隆天覆之恩,宰輔弘寬恕之德,先惠後誅,好生惡殺。往者吳將孫壹舉眾內附,位為上司,寵秩殊異。文欽、唐咨為國大害,叛主仇賊,還為戎首。咨困逼禽獲,欽二子還降,皆將軍、封侯;咨與聞國事。壹等窮踧歸命,猶加盛寵,況巴蜀賢知見機而作者哉!誠能深鑒成敗,邈然高蹈,投跡微子之蹤,錯身陳平之軌,則福同古人,慶流來裔,百姓士民,安堵舊業,農不易畝,巿不回肆,去累卵之危,就永安之福,豈不美與!若偷安旦夕,迷而不反,大兵一發,玉石皆碎,雖欲悔之,亦無及已。其詳擇利害,自求多福,各具宣布,咸使聞知。
(新釈漢文大系『文選』)
往者漢祚衰微、率土分崩、生民之命、幾於泯滅。
我太祖武皇帝、神武聖哲、撥亂反正、拯其將墜、造我區夏。
高祖文皇帝、應天順民、受命踐祚。
烈祖明皇帝、奕世重光、恢拓洪業。然江山之外、異政殊俗、率土齊民、未蒙王化。
此三祖所以顧懷遺志也。
今主上聖德欽明、紹隆前緒、宰輔忠肅明允、劬勞王室。
布政垂惠、而萬邦協和、施德百蠻、而肅慎致貢。
悼彼巴蜀、獨為匪民、愍此百姓、勞役未已。
是以命授六師、龔行天罰、征西雍州鎮西諸軍、五道並進。
古之行軍、以仁為本、以義治之。
王者之師、有征無戰、故虞舜舞干戚而服有苗、周武有散財發廩表閭之義。
今鎮西奉辭銜命,攝統戎車、庶弘文告之訓、以濟元元之命、非欲窮武極戰、以快一朝之志、故略陳安危之要、其敬聽話言。(書き下し)
往者(さきに)漢祚(かんそ)衰微し、率土分崩す。生民の命、泯滅(びんめつ)するに幾(ちか)し。
我が太祖武皇帝、神武聖哲、乱を撥(おさ)め正(せい)に反(かえ)し、其の将(まさ)に墜ちんとするを拯(すく)ひ、我が區夏(くか)を造(な)す。
高祖文皇帝、天に応じ民に順ひ、命を受け祚を踐(ふ)む。
烈祖明皇帝、奕世重光(えきせいちょうこう)、洪業を恢拓(かいたく)す。
然れども江山の外は、政(まつりごと)を異(こと)にし俗を殊(こと)にし、率土の斉民、未だ王化を蒙らず。
此れ三祖の顧懷して志を遺す所以なり。
今主上は聖徳欽明にして、前緒を紹隆し、宰輔は忠肅明允にして、王室を劬勞(くろう)す。
政を布き恵を垂れて、万邦協和し、徳を百蠻に施せば肅慎(しゅくしん)貢を致す。
彼の巴蜀の、独り匪民(ひみん)為(た)るを悼み、此の百姓の、勞役にして未だ已まざるを愍れむ。
是を以て命じて六師(りくし)を授け、天罰を龔行(きょうこう)し、征西雍州鎮西の諸軍、五道並び進む。
古の軍を行ふや、仁を以て本と為し、義を以て之を治む。
王者の師、征有りて戦無し、故に虞舜は干戚(かんせき)を舞ひて有苗(いうべう)を服せしめ、周武に散財發廩表閭(さんざいはつりんへうりょ)義有り。
今鎮西、辞を奉り命を銜(ふく)み、戎車(じゅうしゃ)を攝統(せつとう)し、文告の訓を弘め、以て元元(げんげん)の命(めい)を濟(すく)はんと庶(こいねが)ふ。
武を窮め戦を極め、以て一朝の志を快くせんと欲するに非ず、故に略(ほぼ)安危の要を陳(の)ぶ、其れ敬(つつし)みて話言(わげん)を聴け。(通釈)
往年漢王朝の命運は衰微して、全国の秩序は破壊され、人民の生命は尽滅の危機に瀕していた。
我が太祖武皇帝は、その神武聖哲の英知を駆使されて、乱世を鎮め秩序を回復しようと考えられ、まさに墜ちようとする国家の命運を救われて、我が中華の伝統を出現せしめられた。
高祖文皇帝は、天の意志と万民の願いに従われて、天命を受け漢の国祚を引き継がれた。
烈祖明皇帝は世を重ねるごとに文徳を益々充実され、いよいよ国内の充実拡大に勤められた。
しかし、江山を隔てた外では、政治体制も異なり、風俗も違っていて、この地の人民は王化の恩沢に浴していない。
この解決こそが三代にわたって引き継がれてきた遺志なのである。
今、主上は聖徳をよく慎まれ、遺業を引き継がれており、補佐の任務に在る者たちは、忠誠であり、王室をよく助け、恵政を施して、万国に秩序は保たれ、恩沢を百蛮にまで及ぼして、彼らは朝貢を怠ることはない。
しかし、彼の巴蜀の地だけが、独り天子の民でないことを悲しまれ、この人民たちが苦労を重ねているのを不憫に思われた。
そこで、六軍に命令を発し、天罰を慎んで行われ、征西将軍らの軍を発動されて、五道から進軍されたのである。
古の戦争は、仁を根本として義に従って行うものである。
王者の軍隊には征伐の戦はあるが、対等に戦さすることはない。
それ故、虞舜が干戚(武の舞)を舞うと、有苗は屈服したということがあるし、周の武王には、鹿台の財宝を民に与え、鉅橋の倉(殷の紂王の米倉)を開放し、南容を礼遇したということが有る。
今鎮西将軍は、天子の命を奉じて、兵車を従えて、人民らの命を救おうとしている。
武勇を極め、ほしいままに戦争を起こし、一時の私欲を晴らそうというのではない。
それ故に安危の根本を略陳するのである。
慎んで我が話言を聞け。
益州先主以命世英才、興兵新野、困躓冀徐之郊、制命紹布之手、太祖拯而濟之。
興隆大好、中更背違、棄同即異。
諸葛孔明、仍規秦川、姜伯約屢出隴右、勞動我邊境、侵擾我氐羌。
方國家多故、未遑脩九伐之征也。
今邊境乂清、方内無事、蓄力待時、併兵一向、而巴蜀一州之衆、分張守備、難以禦天下之師。
段谷侯和沮傷之氣、難以敵堂堂之陣。
比年已來、曾無寧歲、征夫勤瘁、難以當子來之民。
此皆諸賢所共親見。蜀侯見禽於秦、公孫述授首於漢。
九州之險、是非一姓、此皆諸君所備聞也。
明者見危於無形、智者規福於未萌。
是以微子去商、長為周賓、陳平背項、立功於漢。
豈宴安鴆毒、懷祿而不變哉。(書き下し)
益州の先主、命世の英才を以て、兵を新野に興し、冀徐の郊に困躓(こんしつ)し、命を紹布の手に制せらる。太祖拯(すく)ひて之を濟(な)す。
興隆して大好なりしも、中ごろ更に背違し、同を棄て異に即く。
諸葛孔明、仍(しき)りに秦川を規し、姜伯約屡々隴右(ろうう)に出て、我が辺境を勞動し、我が氐羌を侵擾す。
國家多故(こっかたこ)に方(あた)り、未だ九伐の征を脩むるに遑(いとま)あらざるなり。
今辺境乂清(がいせい)し、方内無事、力を蓄へ時を待ち、兵を併せ一向す、而るに巴蜀一州の衆、分張し守備するも、以て天下の師を禦ぎ難し。
段谷侯和に沮傷(そしょう)するの氣、以て堂堂の陣に敵し難し。
比年已來(ひねんいらい)、曾(すなは)ち寧歲(ねいさい)無し、征夫勤瘁(きんすい)し、以て子のごとくに來るの民に當り難し。
此れ皆諸賢の共に親見する所なり。
蜀侯は秦に禽(とりこ)とせられ、公孫述は首(かうべ)を漢に授げらる。
九州の険は、是れ一姓に非ず、此れ皆諸君の備(つぶ)さに聞く所なり。
明者は危を無形に見、智者は福を未萌(みぼう)に規(はか)る。
是を以て微子(びし)商を去り、長く周の賓(ひん)と為る、陳平(ちんぺい)項に背き、功を漢に立つ。
豈(あに)鴆毒(ちんどく)に宴安し、祿(ろく)を懷きて変ぜざらんや。(通釈)
益州の先主は世に名高い英才であり、新野に兵を起こしたのであるが、冀州・徐州の郊外で危機に陥り、紹布らの手で命運は窮まろうとしたのである。
それを我が太祖は救われたのである。
かくて勢い盛んとなったのは、誠に見事であった。
途中で違背して、彼は同盟に背き、敵方についた。
諸葛孔明はしきりに秦川をうかがっており、姜維はしばしば隴右に進出している。
我が辺境の民を悩まし、我が氐羌の民の地を侵略している。
国家は事多き故に、未だ討伐の軍を動かす暇がなかったのである。
今は辺境は安定して、国内にも問題は見あたらない。
力を蓄え、時を待ち、兵を合わせて一気に侵攻するならば、巴蜀全土の民が、分拠して守備についたとしても、天下挙っての軍を防御するのは困難であるし、段谷と侯和での敗退に沮喪した志気では、我が堂々の大軍に敵することは出来ないであろう。
比年以来、まるで安寧の日々はなく、兵士たちは憔悴していて、子どもの如く天子を慕う我が民の敵ではない。
これは皆諸君の、自ら目観したことである。
蜀侯が秦に捕虜となり、公孫述が漢朝に首(こうべ)を差し出したことも、中国の険阻なる地は、一姓の者の常居ではないことも、これも、諸君のつぶさに聞き及んでいる事柄である。
明者は危険を無形のうちに察知し、智者は幸運を未然に推し量るものである。
それゆえ、微子は殷の国から去り、周に仕えて賓客となったのであるし、陳平は項羽に背いて、漢朝に功業をうちたてたのである。
さてこの危険な地に安逸を貪り、爵禄に心を奪われていてよいものであろうか。
今國朝隆天覆之恩、宰輔弘寬恕之德、先惠後誅、好生惡殺。
往者吳將孫壹、舉衆内附、位為上司、寵秩殊異。
文欽・唐咨、為國大害、叛主讎賊、還為戎首。咨困偪禽獲、欽二子還降、皆將軍封候、咨豫聞國事、壹等窮踧歸命、猶加上寵。
況巴蜀賢智、見機而作者哉。
誠能深鑒成敗、邈然高蹈、投跡微子之蹤、措身陳平之軌、則福同古人、慶流來裔、百姓士民、安堵樂業、農不易畝、市不迴肆、去累卵之危、就永安之計、豈不美與。
若偷安旦夕、(迷而不反)大兵一放、玉石俱碎、雖欲悔之、亦無及也。
各具宣布、咸使知聞。(書き下し文)
今國朝(こくちょう)天覆の恩を隆(たか)くし、宰輔寬恕の徳を弘くし、恵(けい)を先にし誅を後にし、生を好み殺を悪(にく)む。
往者(さきに)呉将孫壹(そんいつ)、衆を舉げて内に附き、位は上司と為り、寵秩殊異(ちょうちつしゅい)なり。
文欽・唐咨、國の大害を為し、主に叛き旧賊なり、還りて戎首となり。咨は困偪(こんひょく)し禽獲せられ、欽の二子は還り降り、皆将軍封候たり、咨は國事に豫聞し、壹等は窮踧(きゅうしゅく)して命に帰す、猶ほ上寵を加ふ。
況んや巴蜀の賢智、機を見て作(おこ)す者(もの)をや。
誠に能く成敗を深鑒(しんかん)し、邈然(ばくぜん)として高蹈し、跡を微子の蹤(あと)に投じ、身を陳平の軌に措けば、則ち福は古人に同じく、慶は來裔に流れ、百姓士民、安堵して業を楽しみ、農は畝を易えず、市は肆(し)を迴(かへ)さず、累卵の危を去り、永安の計に就くは、豈に美ならずや。
若し旦夕に偷安(とうあん)し、(迷而不反)大兵(たいへい)一たび放たるれば、玉石倶に砕けん、之を悔いんと欲すと雖も、亦た及ぶ無きなり。各々具(つぶ)さに宣布し、咸(みな)知聞せしめよ。(通釈)
今我が天子は、万物に恵みを垂れ、天の如き恩沢を隆盛にされ、宰輔たちは寛容の徳を行き渡らせていて、恵みを先にし誅を後にし、生を好み殺を憎むものである。
先ごろ、呉の将軍孫壱は衆を引き連れて帰順し、位は上司となり、ことのほかの殊遇を受けた。
文欽と唐咨とは国に大害をなし、主に叛く讎敵であり、また叛乱軍の首魁であったが、咨は追いつめられて捕虜となったし、欽の二子は降伏したが、皆将軍となり封侯を得た。壱らは追いつめられて、命に従い、特別の恩寵をたまわった。
まして、巴蜀の賢人智者の、機を見て行動を起こすものにおいては、言を待つまでもあるまい。
誠に事の成否の機を熟慮し、心を一転させて高く一歩を踏みだし、微子の跡にならい、陳平の道に身を寄せるならば、その幸福は古人に等しく、その沢は後の子孫に及び、百官士民はその生業に安堵し、農民はもとのごとく耕し、市場はもとの店舗を営み、累卵の危険を去って、永遠の安泰をはかることが出来るのである。なんと素晴らしいことではないか。
若しも一時の安逸を貪って、大軍が一気に来襲したならば、玉石は共に砕け散るのであり、この時に悔いても、取り返す手だては最早ない。
各位はつぶさに宣布して、みなに聞知せしめよ。
ゲーム関連
あとゲーム関連。
最新の13はこんなかんじだった。
顔グラは12と同じ。
これも悪くないけれど、一番自分の中のイメージなのは11かなあ。
でもまあ9とかのも味わい深いし、今後もモブっぽくならないといいな……。
まとめ
とりあえず資料置き場。
年表はもう少し読みやすいのも作りたいけど手間なので、とりあえず昔作ったものの移転。