鄭小同って?
まずは人名の確認から。
鄭玄の孫の鄭小同、その名前の理由は高貴郷公紀の注のところに説明があって、こんな。
玄別傳曰:
「玄有子,為孔融吏,舉孝廉。融之被圍,往赴,為賊所害。
有遺腹子,以丁卯日生;而玄以丁卯歲生,故名曰小同。」
鄭玄は孫が自分と同じ丁卯に生まれたので、小同と名付けた――らしい。
鄭玄の死因、異説
鄭玄の死については、特に鄭玄伝等は一応自然死にみえるけれど。
(→後漢書・鄭玄伝)
五年(200)春,夢孔子告之曰:『起,起,今年歲在辰,來年歲在巳。』既寤,以讖合之,知命當終,有頃寢疾。
時袁紹與曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍,不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年(200)六月卒,年七十四。
遺令薄葬。自郡守以下嘗受業者,缞绖赴會千餘人。
流れ的には、袁紹に無理させられて死んだということもなくはなさそうではあるにしても。
ただ、これとは違う鄭玄の死に方について裴松之が収録したものもあるので、それを見てみると。
袁紹伝の注の中。
(三国志袁紹伝・注)
英雄記載太祖作董卓歌,辭云:
「德行不虧缺,變故自難常。鄭康成行酒,伏地氣絕,郭景圖命盡於園桑。」
如此之文,則玄無病而卒。餘書不見,故載錄之。『英雄記』には太祖が作った「董卓の歌」を載録している。
その辞には、「徳行が欠けることがなくても、変事がおこって平常を保つことはむずかしい。
鄭康成(鄭玄)は酒盛りのうちに、地面に伏して息絶え、郭景図(郭図)は桑畑で命を終わった」とある。
この叙述のとおりであれば、鄭玄は病気でもないのに死去したことになる。他書には収められていないゆえ、載録した。
袁紹伝にあるのは、この前に引用しているのがこれだから。
九州春秋曰:
紹延徵北海鄭玄而不禮,趙融聞之曰:
「賢人者,君子之望也。不禮賢,是失君子之望也。夫有為之君,不敢失萬民之歡心,況於君子乎?失君子之望,難乎以有為矣。」『九州春秋』にいう。
袁紹は北海の鄭玄を招聘しておきながら礼遇しなかった。……
でもって、最初に引用した鄭玄伝をみても、「時袁紹與曹操相拒於官度,令其子譚遣使逼玄隨軍,不得已,載病到元城縣,疾篤不進,其年(200)六月卒」といったふうに、袁紹は一応関わっていたり(袁紹が子の袁譚に命じて鄭玄を隋軍させようとしたけれどもできずに、病気になって死んだ)。
曹操の董卓歌の鄭玄の死の箇所の意味?
この曹操の董卓歌の鄭玄の死の箇所は、どう理解したらいいのかとか。
次に郭図の死と並んでいるのは、死んだ時期が近いこと、袁紹関連ということで共通点はあるし、たんなる不自然死、非業の死(郭図は殺された)としてのくくりの可能性は高いと思うけれど。
それにしてもこの詩だと、郭図の死は「徳行が欠けることがなくても、変事がおこって平常を保つことはむずかしい」にあたると曹操は考えていたことになるのかとも。
まあ郭図については今回はいいとして。
とりあえず、鄭玄が誰かに毒殺されたとすると、毒を盛ったのはこの流れではまず袁紹(袁譚にやらせたとか袁譚の部下がやったとかはどうでもいい)じゃないかなとか。
袁紹が、自分に従わなかった名声はやたら高い危険人物を自分のところにこないなら殺す、というのはそれほどおかしい流れでもない気はするし。
曹操が作った歌ということから考えても、袁紹の悪口ならとくに不自然さはないし。
てことで、鄭玄は毒殺された可能性もあるのかなとか。
ちなみに「英雄記」の著者は王粲とか。
なので少なくとも最初に出来たのはそんなに後のことではなかったり。
鄭玄孫、鄭小同は司馬昭に毒殺された?
鄭玄の孫の鄭小同の死についても、毒殺されたという記述があったり。
それは名前の由来についてと同じ高貴郷公紀の注の部分。
魏氏春秋から。
魏氏春秋曰:
小同詣司馬文王(司馬昭),文王有密疏,未之屏也。
如廁還,謂之曰:「卿見吾疏乎?」
對曰:「否。」
文王猶疑而鴆之,卒。『魏氏春秋』にいう。
鄭小同が司馬文王(司馬昭)のもとを訪れたさい、司馬文王の手元に内密の書状がおかれ、それはまだ封がしてあった。
司馬文王が手洗いからもどって来て、「君はわしの書状を読んだか」とたずねると、「いいえ」と答えたが、司馬文王はそれでも疑いをもち毒を盛ったので、死んだ。
てことで、こんな経緯で司馬昭に毒殺されてたりとか。
これはわりと不思議な気もするけれど。
なんで、内密の書状が置きっぱなしのところに、疑って殺すような人物を招き入れたあげくさらに置きっぱなしにして厠ににいってるのかとか。
とはいえ、なんの根拠もなしに(孫盛さんは個人的に、自分の脳内あるべき歴史の方を優先する人だとは思ってるけど)鄭小同が司馬昭に殺された説が湧いて出るともおもえないので、ニーズがあった(司馬昭ならこういう悪事をするに違いないという読者層からの)なり、鄭小同が司馬昭と不仲だったという事実くらいはあったとか、少なくとも根も葉もないことはないだろうなとは思ったり。
ていうか、ついでにこれについてウィキペディアはこう書いてるけど。
「ある日、鄭小同が司馬昭の家を訪問した時、司馬昭は密書をしたためていた。まだ、封をしないまま厠で用を足していたため、用を済ませ鄭小同の来訪に気付いた司馬昭は「卿は吾が手紙を読んだか」と聞いた。鄭小同が読んでいない旨を答えたが、司馬昭はなおも疑い、後に彼を毒殺してしまった」
鄭小同が死んだのは曹髦即位後(高貴郷公紀の注に死んだ経緯が出てくるのは、そもそも本文に名前が出てきたから)なのでこれがあったのは少なくとも曹髦の時代かそれ以後。
で、そのころの司馬昭の地位から考えると、鄭小同が家に勝手に密書の近くまで上がり込んでいて、厠から戻ってきてはじめて司馬昭は鄭小同がきていることに気づいた――ということはありえないだろうっていう。
てか、三国志関連のウィキペディアは色々きりがないからやめとこう。
ウィキペディア鄭小同については以上。
鄭小同が、鄭玄と名前の通りに死に方も同じになったとしたら
鄭小同の名前は、誕生日が鄭玄と同じだったから。
そして祖父と同じという風に名前をつけられて、それをつけたのは生きている鄭玄だったし、鄭玄の名声から考えれば祝福された名前だったと思うけれど、結果として鄭玄が毒殺されて、鄭小同もまた毒殺されたとしたら、なんか運命ーって気がするなあとは思ったり。
鄭小同が司馬昭に毒殺された説が説得力をもっていたとしたら、鄭玄が毒殺された説がその素地になっているのかも。
まとめ
個人的にあんまり史実はどうとか気にならないけれど。
少なくともどっちも毒殺されてないと考えるのは、火のないところに煙は立たない的に考えると、あんまり確率は高くない気がしたり。
なので、趣味としては、どっちも毒殺されてるほうがロマンがあっていいよね、って気はするけれど、出来過ぎな気もする。
まあシュレーディンガーの猫みたいに(そのたとえでいいのかは深く考えない)、死因はそれを考えるときの気分次第でいいんじゃないのっていう。
てことでおわり。