鍾会について。
鍾会について考えることは相変わらず飽きないけれど。
歴史人物とは何かということも含めて、こんな調子なのでいろいろ考えさせてくれてたり。
で、鍾会というと、三国志の鍾会が基本だけれど。
鍾会の場合、三国志の時代以外にも地味に存在している(ともいえる)ところがまた興味深かったり。
てことで広義的な鍾会像について、また確認してみたかったり。
基本的に鍾会ではなく字の鍾士季(とそのバリエーション)で登場するので、以下は鍾士季で。
▼東晋の「捜神記」の鍾士季
まず思い浮かぶのがこの、瘟神(疫病神)としての鍾会、鍾士季。
●捜神記の鍾士季
初,有妖書云:
「上帝以三將軍趙公明、鍾士季各督數鬼下取人。」
莫知所在。
佑病差,見此書,與所道趙公明合焉。(捜神記)
捜神記ではそのまま「鍾士季」だったり。
趙公明と一緒なのも目をひくけれど。
捜神記は東晋の干宝が書いたものなので、その辺の時代。
▼六朝時代の「女青鬼律」の鍾士季(鐘士季)
捜神記ではこのようなな記述だけだったけれど、たぶん捜神記より後の六朝時代に出た道教の書物『女青鬼律』にはもう少し詳しく、あるいは発展、整理された(たぶん?)かたちでこんなふうに書かれていたり。
五瘟神。
女青鬼律
http://wenxian.fanren8.com/03/01/106/6.htm東方青炁鬼主姓劉,名元達。領萬鬼,行噁/惡風之病。
南方赤炁鬼主姓張,名元伯。領萬鬼,行熱毒之病。
西方白炁鬼主姓趙,名公明。領萬鬼,行註炁之病。
北方炁炁鬼主姓鐘,名士季。領萬鬼,行噁/惡毒霍亂心腹絞痛之病。
中央黃炁鬼主姓史,名文業。領萬鬼,行噁/惡瘡癱腫之病。
鍾会の鍾が鐘になるのはよくあることっぽいのでここでは不問。
この辺については前にもブログに書いたけれど、この論文で知った感じ。
瘟神の形成と日本におけるその波紋 : オニ(鬼)の発生と怨霊・御霊
山口 建治
http://himoji.kanagawa-u.ac.jp/publication/pdf/annual_report_09/report_09_003.pdf……
六朝時代から唐にかけて五瘟神の観念が生まれてくる。それには草生期の道教の力が与って大きな役割をはたした。李豊楙によると、「道教は……
ただ、六朝初めの五蘊は多くの疾鬼のなかの指導者、いずれも当時の民間でよく知られた『敗軍死将』にすぎなかったのだが、それらの新しい瘟神・疫鬼の神話は瘟疫習俗のために新しい活力を提供し、逐疫・送瘟の儀礼機能を確かなものにした」という。……
五瘟神の観念は六朝時代の『女青鬼律』という道書に初めて出てくる。……
五方の鬼主、すなわち東方の劉元達、南方の張元伯、西方の趙公明、北方の鍾士季、中央の史文業がそれぞれ万鬼を率いて、熱毒の病、注気の病、霍乱の病、癰腫の病を流行らせるという記述がある。……
黄強の「精魅、厲鬼から瘟神まで」によると、……
その厲鬼には二種の類型がある。死後祭り手のいない孤魂と非業死した霊魂である。
そして「漢代以降、このような観念(厲鬼をまつりその祟りを鎮める──筆者)より、さらに一歩進んで邪悪なる厲鬼が封じられて神に祀られた後、疫病を統べる『瘟神』になるという信仰が成り立」つのである。
とりあえずまたまとめるとこんな。
・五瘟神(女青鬼律)
東方の劉元達
南方の張元伯
西方の趙公明
北方の鍾士季
中央の史文業
▼明代の「三教源流捜神大全」の鍾士季(鍾仕貴)
「三教源流捜神大全」は明の時代の。
三教源流捜神大全
→ウィキペディア(中文)
いろいろな道教の神仙が紹介されている本。
ここに「五蘊使者」という名前で五瘟神(名前はほぼおなじ)も紹介されていたり。
本持ってるし維基文庫とかに原文ないみたいなので、写真とったけどこんな。
五蘊使者についてはこの論文に説明あるので、引用。
CiNii 論文 – 長崎唐寺の媽祖堂と祭神について : 沿海「周縁」地域における信仰の伝播 https://t.co/aJM5qoTbEq #CiNii
https://t.co/7VKfhVK63o
五瘟神のこととかも。
— medamayaki (@medamayaki1) 2016, 1月 2
長崎唐寺の媽祖堂と祭神について― 沿海「周縁」地域における信仰の伝播―
著者: 二階堂, 善弘
http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/3195しかし、恐らく五帝神はこれらとは別系統の神であると考えられる。重要なのは、五帝神が閩南の王但と同じく、瘟神の性格を有することである。瘟神といえば、まず想起されるのは、『三教捜神大全』「五瘟使者」に見える五瘟の神である7)。
春瘟 張元伯
夏瘟 劉元達
秋瘟 趙公明
冬瘟 鍾仕貴
総管中瘟 史文業これらの神については、他の神との混同が早くから行われている。すなわち、五通神・五顕大帝・五龍神などの神と習合が行われ、福州との関連からか、五福大帝との称もある。
女青鬼律の五瘟神と比較すると、張元伯と劉元達が五行的に入れ替わっているのと、鍾士季の名前が微妙に違ってたり。
五行的にというのは、春は東、夏は南だから。
・五瘟使者
春瘟――張元伯
夏瘟――劉元達
秋瘟――趙公明
冬瘟――鍾仕貴
総管中瘟――史文業・五瘟神(女青鬼律)
東方――劉元達
南方――張元伯
西方――趙公明
北方――鍾士季
中央――史文業
ここまで合致している以上、「鍾仕貴」は捜神記以来趙公明と一緒に扱われている「鍾士季」と同一人物とみなしていいんじゃないかなとか。
あと、この今日みつけた論文は「五福大帝」で検索してみつけたんだけど、これによると長崎にはかつてはこの五瘟神系の神を祀っていたみたいなので、とりあえず日本に鍾士季が祀られていたことがあるということは、個人的には重要かもしれなかったり。
関帝廟みたいなものにしても。
▼現代の「五福大帝」の鍾士季(鍾士秀)
これについては中国語版ウィキペディアくらいしかみつからないけれど、どうやらこの五瘟神の系統の五福大帝という神々が台湾や福建あたりの中国の南の方を中心に祀られていて今も現役で信仰されている様子?
とりあえず中文ウィキペディアによるとこんな。
五福大帝
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A6%8F%E5%A4%A7%E5%B8%9D五福大帝又稱五福王爺[1][2]、五靈王爺、五路瘟神、五方瘟神、五瘟大帝、五瘟使者、五靈公或五靈官,五神名號為:顯靈公張元伯、應靈公鍾士秀(一作鍾士季)、宣靈公劉元達、揚靈公史文業、振靈公趙公明(一作趙光明),本掌管瘟疫之瘟神,後被奉為民間的逐疫之神,也被福州人奉為鄉土守護神、陰間的司法神。這種「逐疫五神」類信仰對流行與閩南的王爺信仰與城隍信仰也有相當的影響。而據說八家將則源於五福大帝的幕府神將。[3]
▼まとめ
前のブログでも書いたけど、また改めて見なおしてみたり。
とりあえず、鍾会は死後も瘟神(疫病神)として現代まで生き続けているとも言えるということ。
その辺がいろいろ楽しいなあとか思ったり。
鍾会は、封神演義のルーツでは殷所属でこの五瘟神たちとひっそり登場してたり、三国志以前にも遡れるので、かなり歴史時代をカバーできる長命なところも魅力的。
こっちについてもまた改めて見なおしてみたいけれどとりあえず今回はここまで。
おわり。
→続き
[…] 前回の記事からの続き。 […]
[…] 最近、五瘟神の鍾会についてブログ書いたりしてたけれど。 […]