2016.03.28
2305文字 / 読了時間:2.9分程度

趙広(ちょうこう)は趙雲の次子。蜀の人。兄に趙統。
生没年不詳。没年は263年か。

趙広資料

「三国志」に登場するのは、この一箇所のみ。

趙雲伝

雲子統嗣,官至虎賁中郎,督行領軍。
次子廣(趙広),牙門将,隨姜維沓中,臨陳戦死。

次男の趙広は牙門将となり、姜維に随行して沓中に行き、前線で戦死した。

趙広が死んだのはいつか

姜維が沓中に行ったのは2回以上ある。
最も有名なのは262年のこうわの戦いに敗れた後、沓中に駐屯した(263年に鄧艾鍾会らが攻めてくるまで)時のことであろう。
もう一つは、248年に郭淮と姜維が戦った時のことでだいぶ遡る。

(郭淮伝)

淮曰、「今往取化、出賊不意、維必狼顧。比維自致、足以定化、且使維疲於奔命。兵不遠西、而胡交自離、此一挙而両全之策也。」乃別遣夏侯覇等追維於沓中、淮自率諸軍就攻化等。維果馳還救化、皆如淮計。

郭淮はいった、「今、出かけていって廖化を陥とし、賊の不意をつけば、姜維は必ず狼狽する。
姜維が自分で駆けつけるころには、廖化を平定できるであろう。
そのうえ姜維をして奔命に疲れさせる結果となる。兵を遠くまで西征させずとも、蛮族との連合は自然と離れる。これこそ一挙両全の策である」
そこで別に夏侯覇らを派遣して、沓中に姜維を追わせ、郭淮は自身で諸軍をひきいて廖化のもとへ行き攻撃した。

ただし、この時姜維が夏侯覇と戦ったかは不明。
そのため、248年に趙広が戦死することができたかも不明である。
またこの場合、「隨姜維沓中」と表現するか疑問がわく。

やはり趙広の「隨姜維沓中,臨陳戦死」は、262年の「姜維復率衆出侯和、為鄧艾所破、還住沓中(後主伝)」の沓中行きを指しているのであろう。
そしてその後、姜維が戦ったといえるのは、姜維伝によると263年鄧艾(「月餘,維為鄧艾所摧,還住陰平」)、鍾会(「適與翼、厥合,皆退保劍閣以拒会」)、それから264年に成都で鍾会とともに殺された時(「魏将士憤發,殺会及維,維妻子皆伏誅」)。

剣閣の場合、剣閣に篭って防いでいる側で、「臨陳戦死」ということはあるだろうかという疑問。
成都の場合は「臨陳戦死」というだろうかという疑問。

鄧艾と戦った時(「月餘,維為鄧艾所摧,還住陰平」)が、姜維がこれまで鄧艾に段谷、侯和で敗れていることを考えても最も可能性が高いのではないか。

また沓中の名が出てくるのも、そもそも鄧艾が与えられた命令は沓中に向かい姜維を捕えることだった。

(陳留王紀)

今使征西将軍鄧艾督帥諸軍,趣甘松、沓中以羅取維,雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都、高樓,首尾槅討。若擒維,便當東西並進,掃滅巴蜀也。
又命鎮西将軍鍾会由駱谷伐蜀。

いま、征西将軍鄧艾に諸軍を統率して、甘松・沓中に進発し姜維を生け捕りにすることを命じ、揚州刺史諸葛緒に諸軍を統率して、武都・高楼に進発し、前後から追いたてることを命ずる。
もし姜維を捕虜にしたならば、東と西から同時に進撃し、巴蜀を掃討せよ。
また、鎮西将軍鍾会に駱谷を通って蜀を攻撃することを命ずる。

鄧艾(鄧艾配下の太守)と姜維の263年の戦いはこのような内容。

(鄧艾伝)

景元三年,又破維於侯和,維卻保沓中。
四年(263)秋,詔諸軍征蜀,大将軍司馬文王皆指授節度,使艾與維相綴連;雍州刺史諸葛緒要維,令不得歸。
艾遣天水太守王頎等直攻維營,隴西太守牽弘等邀其前,金城太守楊欣等詣甘松
維聞鍾会諸軍已入漢中,引退還。
欣等追躡於強川口,大戦,維敗走。
聞雍州已塞道屯橋頭,從孔函谷入北道,欲出雍州后。諸葛緒聞之,卻還三十里。維入北道三十餘里,聞緒軍卻,尋還,從橋頭過,緒趣截維,較一日不及。維遂東引,還守剣閣。

趙広と姜維

趙広の少ない情報のなかに姜維の名が含まれていることは印象的である。
何年に、ではなく、またどこででもなく、「隨姜維沓中」という流れで趙広は死んだ(臨陳戦死)ということが陳寿にとって重要な情報だったということだろうか。

姜維と趙広とは、261年に贈られた趙雲の諡号の件でも接点がある。

(後主伝)

(景耀)三年(260)秋九月、追諡故将軍関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠。
(景耀)四年(261)春三月、追諡故将軍趙雲。冬十月、大赦。

(趙雲伝)

初,先主時,惟法正見諡;後主時,諸葛亮功德蓋世,蔣琬、費禕荷國之重,亦見諡;陳祗寵待,特加殊獎,夏侯霸遠來歸國,故複得諡;於是關羽、張飛、馬超、龐統、黄忠及雲乃追諡,時論以為榮。

〈雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡。」
大将軍姜維等議,以為雲昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。〉

260年に関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠に諡号が贈られた。その翌年(261)、改めて追加として趙雲に諡号が贈られている。
そしてその趙雲の諡号については趙雲別伝に、姜維等の建議によって贈られることになったとある。

ここから、趙広は姜維とは友好的な関係であり、姜維はその趙広をより引き立てる目的もあって趙雲の諡号の件を追加しようと考えたのではないだろうか。

参考資料――索引(ちくま)

趙広

③99……趙雲の子のこの趙広とは同姓同名の別人(古人)
⑤191……趙雲伝


趙統

⑤191

参考資料――三國志13











Comment


Memo.Medamayaki

三国志他歴史、小説、ゲーム等に関するメモ用ブログ。

TEMPLATE:Ateh's theme

×

Status


苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:

Setting

苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身地:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:





× 
×

Recent Posts

×

Custom Menu