2016.03.20
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諸葛瞻(しょかつせん)は、諸葛亮の子。字は思遠。
227-263。

諸葛亮ははじめ、兄諸葛瑾の次男諸葛喬(204-228)を養子にしていたが、実子の諸葛瞻誕生(227)の翌年病死した。

公主を娶るなど蜀で優遇されたが、綿竹で鄧艾と戦って敗死。
長男の諸葛尚も共に戦死。

諸葛瞻の主な一族

諸葛亮(父)
諸葛瑾(伯父)
諸葛均(叔父)
諸葛恪(従兄弟)……諸葛瑾の長男
諸葛喬(従兄弟→義兄)……諸葛瑾の次男、諸葛亮の養子
公主(妻)……劉禅の娘?
諸葛尚(長男)
諸葛京(次男)
諸葛攀……諸葛喬の子
諸葛顯……諸葛攀の子

諸葛瞻に対する主な評価

(諸葛亮)

建興十二年、亮出武功、与瑾書曰、「瞻今已八歳、聰慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳。」

建興十二年(234)、諸葛亮が武功に出陣したとき、兄の諸葛瑾に手紙を送って、「瞻はいまもう八歳で、利巧なかわいい子ですが、早成して、大物にならないのではないかと気がかりです」と述べている。

(陳寿)

瞻工書畫、強識念、蜀人追思亮、咸愛其才敏。毎朝廷有一善政佳事、雖非瞻所建倡、百姓皆伝相告曰、「葛侯之所為也、」是以美声溢譽、有過其実。

諸葛瞻は書画が巧みで、記憶力がよく、蜀の人々は諸葛亮を追慕して、みな彼の才能を愛した。朝廷にちょっとした善政やめでたい事があるたびに、諸葛瞻がいい出したことではなくとも、人々はみなその話を伝えあって、「葛侯のなさったことだ」といった。このためすばらしい評判にみちみち、彼の実質以上でさえあった。


自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯、

諸葛瞻・董厥・樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから、宦官の黄皓が、政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって、政治を矯正することができなかった。

(干宝)

干寶曰、瞻雖智不足以扶危、勇不足以拒敵、而能外不負国、内不改父之志、忠孝存焉。

干宝はいう。諸葛瞻は危難を救うにたる智恵も、敵を防ぎ止めるだけの武勇ももたなかったが、しかしよく外は国家を裏切らず、内は父の志にそい、忠孝を貫いた。

(孫盛+蜀の長老)

孫盛異同記曰、
瞻、厥等以維好戦無功、国内疲弊、宜表後主、召還為益州刺史、奪其兵権;
蜀長老猶有瞻表以閻宇代維故事。

孫盛の『異同記』にいう。
諸葛瞻・董厥らは、姜維が戦争を好んで功績なく、国内が疲弊していることを理由に、彼を召還して、その軍事権を奪うように後主に上奏すべきだと考えた。
蜀の長老はなお、諸葛瞻の上奏には、閻宇を姜維と交代させる意見が載せられていたと述べている。


(孫盛+蜀の長老+常璩)

晋永和三年、蜀史常璩説蜀長老云、「陳寿嘗為瞻吏、為瞻所辱、故因此事帰悪黄皓、而雲瞻不能匡矯也。」

晋の永和三年(347)、蜀の史官だった常璩が蜀の長老の「陳寿は昔、諸葛瞻の下役だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けたことがあった。だから、そのことを根に持って諸悪の原因を黄皓におしつけたうえ、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと記した」という話を述べている。

(常璩)

(by孫盛)晋の永和三年(347)、蜀の史官だった常璩が蜀の長老の「陳寿は昔、諸葛瞻の下役だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けたことがあった。だから、そのことを根に持って諸悪の原因を黄皓におしつけたうえ、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと記した」という話を述べている。

華陽国志(常璩著)曰、尚嘆曰、「父子荷国重恩、不早斬黄皓、以致傾敗、用生何為!」乃馳赴魏軍而死。

『華陽国志』にいう。諸葛尚は慨歎して、「父も子も国家の厚い恩義を荷っているのに、さっさと黄皓を斬らなかったために、敗北を招いてしまった。生きていて何になろうか」といい、かくて魏軍に突進して、討死した。

(宗預)

時都護諸葛瞻初統朝事、廖化過預、欲与預共詣瞻許。
預曰、「吾等年逾七十、所竊已過、但少一死耳、何求於年少輩而屑屑造門邪?」
遂不往。

諸葛瞻年表

以下、諸葛瞻関連年表。

227年(太和元-曹叡/建興5-劉禅/黄武6-孫権)

1歳。
諸葛瞻誕生。父、諸葛亮。
父諸葛亮の養子の兄、諸葛喬24歳。
父諸葛亮、出師の表を書く。

(後主伝)

(建興)五年(227)春、丞相亮出屯漢中、営沔北陽平石馬。

  諸葛亮集載禪三月下詔曰、
「朕聞天地之道、福仁而禍淫;善積者昌、悪積者喪、古今常数也。是以湯、武脩徳而王、桀、紂極暴而亡。曩者漢祚中微、網漏兇慝、董卓造難、震盪京畿。曹操階禍、竊執天衡、殘剝海内、懐無君之心。子丕孤豎、敢尋乱階、盜據神器、更姓改物、世濟其凶。当此之時、皇極幽昧、天下無主、則我帝命隕越於下。昭烈皇帝體明叡之徳、光演文武、応乾坤之運、出身平難、経営四方、人鬼同謀、百姓与能。兆民欣戴。奉順符讖、建位易号、丕承天序、補弊興衰、存復祖業、誕膺皇綱、不墜於地。万国未定、早世遐殂。朕以幼衝、繼統鴻基、未習保傅之訓、而嬰祖宗之重。六合壅否、社稷不建、永惟所以、念在匡救、光載前緒、未有攸濟、朕甚懼焉。是以夙興夜寐、不敢自逸、毎従菲薄以益国用、勧分務穡以阜民財、授方任能以参其聴、断私降意以養将士。
欲奮剣長駆、指討凶逆、硃旗未挙、而丕復隕喪、斯所謂不燃我薪而自焚也。
殘類余醜、又支天禍、恣睢河、洛、阻兵未弭。諸葛丞相弘毅忠壮、忘身憂国、先帝託以天下、以勗朕躬。
今授之以旄鉞之重、付之以專命之権、統領歩騎二十万衆、董督元戎、龔行天罰、除患寧乱、克復舊都、在此行也。昔項籍總一強衆、跨州兼土、所務者大、然卒敗垓下、死於東城、宗族如焚、為笑千載、皆不以義、陵上虐下故也。
今賊效尤、天人所怨、奉時宜速、庶憑炎精祖宗威霊相助之福、所向必克。呉王孫権同卹災患、潛軍合謀、掎角其後。涼州諸国王各遣月支、康居胡侯支富、康植等二十余人詣受節度、大軍北出、便欲率将兵馬、奮戈先駆。天命既集、人事又至、師貞勢並、必無敵矣。夫王者之兵、有徵無戦、尊而且義、莫敢抗也、故鳴条之役、軍不血刃、牧野之師、商人倒戈。今旍麾首路、其所経至、亦不欲窮兵極武。有能棄邪従正、簞食壺漿以迎王師者、国有常典、封寵大小、各有品限。及魏之宗族、支葉、中外、有能規利害、審逆順之数、来詣降者、皆原除之。昔輔果絶親於智氏、而蒙全宗之福、微子去殷、項伯帰漢、皆受茅土之慶。此前世之明驗也。若其迷沈不反、将助乱人、不式王命、戮及妻孥、罔有攸赦。広宣恩威、貸其元帥、吊其殘民。他如詔書律令、丞相其露布天下、使称朕意焉。」

228年(太和2-曹叡/建興6-劉禅/黄武7-孫権)

2歳。
兄諸葛喬(25歳)病死。
父諸葛亮北伐。馬謖、諸葛亮に斬られる。
姜維、蜀に来る。

(後主伝)

(建興)六年(228)春、亮出攻祁山、不克。冬、復出散関、囲陳倉、糧尽退。魏将王雙率軍追亮、亮与戦、破之、斬雙、還漢中。

234年(青龍2-曹叡/建興12-劉禅/嘉禾3-孫権)

8歳。
8月、父諸葛亮、五丈原で死去。

(後主伝)

(建興)十二年(234)春二月、亮由斜谷出、始以流馬運。秋八月、亮卒渭濱。征西大将軍魏延与丞相長史楊儀爭権不和、挙兵相攻、延敗走。斬延首、儀率諸軍還成都。大赦。以左将軍呉壹為車騎将軍、仮節督漢中。以丞相留府長史蒋琬為尚書令、總統国事。

(諸葛瞻伝)

建興十二年、亮出武功、与瑾書曰、「瞻今已八歳、聰慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳。」

建興十二年(234)、諸葛亮が武功に出陣したとき、兄の諸葛瑾に手紙を送って、
「瞻はいまもう八歳で、利巧なかわいい子ですが、早成して、大物にならないのではないかと気がかりです」と述べている。

(諸葛亮伝

諸葛亮の弟の諸葛均は長水校尉まで昇進した。諸葛亮の子の諸葛瞻は父の爵をうけついだ。

243年(正始4-曹芳/延煕6-劉禅/赤烏6-孫権)

17歳。
公主を娶る。騎都尉。

(後主伝)

(延熙)六年(243)冬十月、大司馬蒋琬自還漢中、住涪。十一月、大赦。以尚書令費禕為大将軍。

(諸葛瞻伝)

年十七、尚公主、拜騎都尉。

十七歳のとき公主をめとり、騎都尉を拝命した。

この年の蜀の出来事。

10月、蒋琬は漢中を去り、涪に駐屯。
11月、費禕が大将軍になる。
またこの年、姜維は鎮西大将軍、涼州刺史に。

244年(正始5-曹芳/延煕7-劉禅/赤烏7-孫権)

18歳。
羽林中郎将に昇進。

(後主伝)

(延熙)七年(244)閏月、魏大将軍曹爽、夏侯玄等向漢中、鎮北大将軍王平拒興勢囲、大将軍費禕督諸軍往赴救、魏軍退。夏四月、安平王理卒。秋九月、禕還成都。

(諸葛瞻伝)

其明年為羽林中郎将、屢遷射声校尉、侍中、尚書僕射、加軍師将軍。

その翌年(244)、羽林中郎将、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された。

246年(正始7-曹芳/延煕9-劉禅/赤烏9-孫権)

20歳。

(後主伝)

(延熙)九年(246)夏六月、費禕還成都。秋、大赦。冬十一月、大司馬蒋琬卒。

   魏略曰、琬卒、禪乃自攝国事。

この年の蜀の出来事。

6月、費禕は成都に戻る。
11月、蒋琬、かねてからの病が悪化して死去。

247年(正始8-曹芳/延煕10-劉禅/赤烏10-孫権)

21歳。

(後主伝)

十年,涼州胡王白虎文、治無戴等率衆降,衛将軍姜維迎逆安撫,居之於繁縣。
是歲,汶山平康夷反,維往討,破平之。

248年(正始9-曹芳/延煕11-劉禅/赤烏11-孫権)

22歳。

(後主伝)

十一年夏五月,大将軍費禕出屯漢中。秋,涪陵屬國民夷反,車騎将軍鄧芝往討,皆破平之。

249年(嘉平元-曹芳/延煕12-劉禅/赤烏12-孫権)

23歳。

(後主伝)

十二年春正月,魏誅大将軍曹爽等,右将軍夏侯覇來降。
夏四月,大赦。
秋,衛将軍姜維出攻雍州,不克而還。将軍句安、李韶降魏。

250年(嘉平2-曹芳/延煕13-劉禅/赤烏13-孫権)

24歳。

(後主伝)

十三年,姜維復出西平,不克而還。

252年(嘉平4-曹芳/延煕15-劉禅/神鳳元年、建興元年、-孫権、孫亮)

26歳。
4月、孫権死去。

(後主伝)

十五年,呉王孫権薨。

従兄弟(父諸葛亮の兄諸葛瑾の子)の諸葛恪が呉の皇帝孫亮の太傅となり実権を握る。
10月、東興の戦い(諸葛恪が魏に大勝)。

この時期、張嶷は諸葛瞻に、諸葛恪に関して手紙を送っている。

(張嶷伝)

吳太傅諸葛恪以初破魏軍,大興兵眾以圖攻取。侍中諸葛瞻,丞相亮之子,恪從弟也。
嶷與書曰:「東主初崩,帝實幼弱,太傅受寄託之重,亦何容易!親以周公之才,猶有管、蔡流言之變,霍光受任,亦有燕、蓋、上官逆亂之謀,賴成、昭之明,以免斯難耳。昔每聞東主殺生賞罰,不任下人,又今以垂沒之命,卒召太傅,屬以後事,誠實可慮。加吳、楚剽急,乃昔所記,而太傅離少主,履敵庭,恐非良計長算之術也。雖雲東家綱紀肅然,上下輯睦,百有一失,非明者之慮邪?取古則今,今則古也,自非郎君進忠言於太傅,誰復有盡言者也!旋軍廣農,務行德惠,數年之中,東西並舉,實為不晚,願深采察。」
恪竟以此夷族。嶷識見多如是類。

ちなみに張嶷は、諸葛恪と同様253年に暗殺される費禕についても忠告をしている。

嶷初見費禕為大將軍,恣性泛愛,待信新附不過,嶷書戒之曰:「昔岑彭率師,來歙杖節,鹹見害於刺客,今明將軍位尊權重,宜鑒前事,少以為警。」後禕果為魏降人郭脩所害。

253年(嘉平5-曹芳/延煕16-劉禅/建興2-孫亮)

27歳。

1月、費禕が暗殺される。
夏、姜維北伐。
夏、諸葛恪、合肥新城の戦いで勝てず、8月撤退。10月、諸葛恪、孫峻に暗殺される。

(後主伝)

十六年春正月,大将軍費禕為魏降人郭循所殺於漢壽。
夏四月,衛将軍姜維復率衆圍南安,不克而還。

(樊建伝)

自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯、
然建特不与皓好往来。

諸葛瞻・董厥・樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから、宦官の黄皓が、政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって、政治を矯正することができなかった。
しかし樊建だけは、黄皓と特に親しく往来することがなかった。

(注)

孫盛異同記曰、瞻、厥等以維好戦無功、国内疲弊、宜表後主、召還為益州刺史、奪其兵権;蜀長老猶有瞻表以閻宇代維故事。
晋永和三年、蜀史常璩説蜀長老云、「陳寿嘗為瞻吏、為瞻所辱、故因此事帰悪黄皓、而雲瞻不能匡矯也。」

孫盛の『異同記』にいう。諸葛瞻・董厥らは、姜維が戦争を好んで功績なく、国内が疲弊していることを理由に、彼を召還して、その軍事権を奪うように後主に上奏すべきだと考えた。蜀の長老はなお、諸葛瞻の上奏には、閻宇を姜維と交代させる意見が載せられていたと述べている。
晋の永和三年(347)、蜀の史官だった常璩が蜀の長老の「陳寿は昔、諸葛瞻の下役だったとき、諸葛瞻から恥辱を受けたことがあった。だから、そのことを根に持って諸悪の原因を黄皓におしつけたうえ、諸葛瞻は政治の乱れを矯正できなかったと記した」という話を述べている。

※これは258年ではなくて253年以降のことかも

254年(正元元-曹芳、曹髦/延煕17-劉禅/5鳳元-孫亮)

28歳。

(後主伝)

(延熙)十七年(254)春正月、姜維還成都。大赦。夏六月、維復率衆出隴西。冬、拔狄道、(河間)[河関]、臨洮三県民、居於綿竹、繁県。

255年(正元2-曹髦/延煕18-劉禅/5鳳2-孫亮)

29歳。

(後主伝)

(延熙)十八年(255)春、姜維還成都。夏、復率諸軍出狄道、与魏雍州剌史王経戦於洮西、大破之。経退保狄道城、維卻住鍾題。

256年(甘露元-曹髦/延煕19-劉禅/太平元-孫亮)

30歳。

段谷の戦いで姜維、鄧艾に大敗。

(後主伝)

(延熙)十九年(256)春、進姜維位為大将軍、督戎馬、与鎮西将軍胡濟期会上邽、濟失誓不至。
秋八月、維為魏大将軍鄧艾所破於上邽。維退軍還成都。
是歳、立子瓚為新平王。大赦。

257年(甘露2-曹髦/延煕20-劉禅/太平2-孫亮)

31歳。

魏で諸葛誕の乱。

(後主伝)
(延熙)二十年(257)、聞魏大将軍諸葛誕據寿春以叛、姜維復率衆出駱谷、至芒水。是歳大赦。

258年(甘露3-曹髦/景耀元-劉禅/永安元-孫亮、孫休)

32歳。

黄皓の専制開始。
陳祗死去。
呉では孫亮が廃され孫休が皇帝に。

(後主伝)

景耀元年(258)、姜維還成都。史官言景星見、於是大赦、改年。
宦人黄皓始專政。
呉大将軍孫琳廃其主亮、立琅邪王休。

景耀元年(258)、姜維が成都に帰還した。史官が景星(めでたい星)があらわれたと言上し、そのため大赦が行われ、年号が改められた。
宦官の黄皓がはじめて政治権力を握った。
呉の大将軍孫綝がその主君孫亮を廃して、瑯邪王の孫休を立てた。

(宗預伝)

景耀元年、以疾徵還成都。後為鎮軍大将軍、領兗州刺史。
時都護諸葛瞻初統朝事、廖化過預、欲与預共詣瞻許。
預曰、「吾等年逾七十、所竊已過、但少一死耳、何求於年少輩而屑屑造門邪?」遂不往。

259年(甘露4-曹髦/景耀2-劉禅/永安2-孫休)

33歳。

(後主伝)

(景耀)二年(259)夏六月、立子諶為北地王、恂為新興王、虔為上党王。

260年(景元元-曹髦、曹奐/景耀3-劉禅/永安3-孫休)

34歳。

(後主伝)

(景耀)三年(260)秋九月、追諡故将軍関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠。

261年(景元2-曹奐/景耀4-劉禅/永安4-孫休)

35歳。

(後主伝)

(景耀)四年(261)春三月、追諡故将軍趙雲。冬十月、大赦。

(諸葛瞻伝)

景耀四年、為行都護衛将軍、与輔国大将軍南郷侯董厥並平尚書事。

景耀四年(261)、行都護衛将軍となり、輔國大将軍・南郷侯の董厥とともに、平尚書事となった。

262年(景元3-曹奐/景耀5-劉禅/永安5-孫休)

36歳。

(後主伝)

(景耀)五年(262)春正月、西河王琮卒。
是歳、姜維復率衆出侯和、為鄧艾所破、還住沓中。

(姜維伝)

五年,維率眾出漢。侯和為鄧艾所破,還住沓中。
維本羈旅托國,累年攻戰,功績不立。而宦官黄皓等弄権於内,右大将軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇。
維亦疑之,故自危懼,不復還成都。

五年(262)、姜維は軍勢を率いて侯和に出、鄧艾に撃破され、引き返して沓中に駐屯した。
姜維はもともと故郷を離れて蜀に身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら、功績を立てることができずにいるうち、宦官の黄皓らが宮中にいて権力をわがものとし、右大将軍の閻宇が黄皓と結託した。
しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もそれを疑っていたので、危惧の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。

〈華陽國志曰;維惡黃皓恣擅,啟後主欲殺之。後主曰:「皓趨走小臣耳,往董允切齒,吾常恨之,君何足介意!」維見皓枝附葉連,懼於失言,遜辭而出。後主敕皓詣維陳謝。維說皓求沓中種麥,以避內逼耳。〉

263年(景元4-曹奐/炎興元-劉禅/永安6-孫休)

37歳。
諸葛瞻、鄧艾と綿竹で戦って戦死。蜀滅亡。

(後主伝)

(景耀)六年(263)夏、魏大興徒従衆、命征西将軍鄧艾、鎮西将軍鍾会、雍州剌史諸葛緒数道並攻。於是遣左右車騎将軍張翼、廖化、輔国大将軍董厥等拒之。
大赦。改元為炎興。
冬、鄧艾破衛将軍諸葛瞻於綿竹。
用光祿大夫譙周策、降於艾、奉書曰、”限分江、漢、遇值深遠、階緣蜀土、斗絶一隅、干運犯冒、漸苒歴載、遂与京畿攸隔万里。毎惟黄初中、文皇帝命虎牙将軍鮮於輔、宣温密之詔、申三好之恩、開示門戸、大義炳然、而否徳闇弱、竊貪遣緒、俯仰累紀、未率大教。天威既震、人鬼帰能之数、怖駭王師、神武所次、敢不革面、順以従命!輒敕群帥投戈釋甲、官府帑藏一無所毀。百姓布野、余糧棲畝、以俟後来之惠、全元元之命。伏惟大魏布徳施化、宰輔伊、周、含覆藏疾。謹遣私署侍中張紹、光祿大夫譙周、駙馬都尉鄧良奉繼印綬、請命告誠、敬輸忠款、存亡敕賜、惟所裁之。輿櫬在近、不復縷陳。”是日、北地王諶傷国之亡、先殺妻子、次以自殺。

(諸葛瞻伝)

六年冬、魏徵西将軍鄧艾伐蜀、自陰平由景穀道旁入。瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住綿竹。艾遣書誘瞻曰、「若降者、必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。遂戦、大敗、臨陣死、時年三十七。衆皆離散、艾長駆至成都。瞻長子尚、与瞻倶沒。

六年(263)冬、魏の征西将軍鄧艾が蜀を討ち、陰平から景谷道を通り侵入してきた。諸葛瞻は諸軍を率いて涪(ふ)に赴き駐留していたが、先鋒隊が敗北したので退却し、綿竹県に陣どった。鄧艾は手紙を送り、諸葛瞻を誘って、「もしも降伏したならば、必ず上表して瑯邪王にとりたてよう」といってきた。諸葛瞻は激怒し、鄧艾の使者を斬った。かくて合戦したが、大敗し、前線で死亡した。時に三十七歳。軍勢はすべてちりぢりになって逃亡した。鄧艾は長駆して成都に到着した。
諸葛瞻の長男諸葛尚は、父ともに戦死した。

  干寶曰、瞻雖智不足以扶危、勇不足以拒敵、而能外不負国、内不改父之志、忠孝存焉。

  華陽国志曰、尚嘆曰、「父子荷国重恩、不早斬黄皓、以致傾敗、用生何為!」乃馳赴魏軍而死。

次子京及攀子顯等、咸熙元年内移河東。

  案諸葛氏譜云、京字行宗。

  晋泰始起居注載詔曰、「諸葛亮在蜀、尽其心力、其子瞻臨難而死義、天下之善一也。」其孫京、隨才署吏、後為郿令。尚書僕射山濤啟事曰、「郿令諸葛京、祖父亮、遇漢乱分隔、父子在蜀、雖不達天命、要為尽心所事。京治郿自復有称、臣以為宜以補東宮舍人、以明事人之理、副梁、益之論。」

(鄧艾伝)

艾上言:
「今賊摧折,宜遂乘之,從陰平由邪徑經漢德陽亭趣涪,出剣閣西百里,去成都三百餘里,奇兵沖其腹心。剣閣之守必還赴涪,則会方軌而進;剣閣之軍不還,則應涪之兵寡矣。軍志有之曰:『攻其無備,出其不意。』今掩其空虛,破之必矣。」

鍾会が姜維を攻撃したが、勝てないでいた。
鄧艾は上奏して述べた、
「今、賊軍をたたきのめしたところですから、当然このままつけこんで攻めるべきです。陰平から横道を通り、漢の徳陽亭を経て涪(ふ)へ向かいますれば、剣閣の西百里、成都から三百余里の地点にでることになり、奇襲の兵が敵の中心部を突くことになります。剣閣の守備軍は必ずや引き返して涪へ駆けつけるでしょう。さすれば鍾会は車を並べて進軍できましょう。剣閣の軍が引き返さないとあらば、涪に対応する兵が少数となります。このことについて兵書(『孫子』計篇)に『敵の防備なき所を攻撃し、敵の不意を突く』と書いております。今、敵のがらきの所を襲撃するわけですから、撃破することまちがいなしです。」

冬十月,艾自陰平道行無人之地七百餘里,鑿山通道,造作橋閣。山高谷深,至為艱險,又糧運将匱,頻於危殆。艾以氈自裹,推轉而下。将士皆攀木緣崖,魚貫而進。
先登至江由,蜀守将馬邈降。蜀衛将軍諸葛瞻自涪還綿竹,列陳待艾。艾遣子惠唐亭侯忠等出其右,司馬師纂等出其左。忠、纂戰不利,並退還,曰:「賊未可撃。」艾怒曰:「存亡之分,在此一舉,何不可之有?」乃叱忠、纂等,将斬之。忠、纂馳還更戰,大破之,斬瞻及尚書張遵等首,進軍到雒。劉禪遣使奉皇帝璽綬,為箋詣艾請降。

冬十月、鄧艾は陰平の街道から無人の地を七百里にわたって行軍した。山に穴をあけて道を通じ、(谷には)橋をかけた。山は高く谷は深く、作業は困難を極めた。また兵糧もゆきづまり、危機にさらされた。
……
先陣が江由に到達すると、蜀の守備隊長馬邈は降伏した。蜀の衛将軍諸葛瞻は涪から綿竹へ引き返し、陣を連ねて鄧艾を待ち受けた。鄧艾は子の恵唐亭侯鄧忠に敵の右陣を、司馬の師纂に左陣を攻撃させた。鄧忠・師纂は戦いに負け、いずれも退却してきて、「賊はまだ攻撃不可能です」といった。鄧艾は腹を立て、「存亡の分れ目は、この一戦にかかっているのだ。どこに不可能などということがある」と、鄧忠・師纂をどなりつけ、斬罪に処そうとした。鄧忠と師纂は馳せ戻ってもう一度戦闘を交え、敵をさんざんにうち破って、諸葛瞻と尚書張遵らの首を斬った。……

艾至成都,禪率太子諸王及群臣六十餘人面縛輿櫬詣軍門,艾執節解縛焚櫬,受而宥之。
檢御将士,無所虜略,綏納降附,使復舊業,蜀人稱焉。輒依鄧禹故事,承製拜禪行驃騎将軍,太子奉車、諸王駙馬都尉。蜀群司各隨高下拜為王官,或領艾官屬。以師纂領益州刺史,隴西太守牽弘等領蜀中諸郡。
使於綿竹築台以為京觀,用彰戰功。士卒死事者,皆與蜀兵同共埋藏。
艾深自矜伐,謂蜀士大夫曰:「諸君賴遭某,故得有今日耳。若遇呉漢之徒,已殄滅矣。」又曰:「姜維自一時雄兒也,與某相值,故窮耳。」有識者笑之。

 鄧艾が成都に到着すると、劉禅は太子・諸王および群臣六十四人をひきつれ、手をうしろに縛り棺桶をかついで軍門に出頭した。鄧艾は節を手にし、いましめを解き棺を焼き、彼らを受け入れて罪をゆるした。将兵をとり調べて統御したが、略奪したりすることはなく、降伏者を落ち着かせ、もとの仕事に復帰させたので、蜀の人民は彼をたたえた。……

綿竹において台を築いて京観を作り、戦功の記念とした。戦死した兵卒はみな蜀兵といっしょに埋葬した。鄧艾はたいそう自分の手柄を自慢し、蜀の士大夫に向かって述べた、「諸君はわしに合ったおかげで、今日の日を迎えられるのだぞ。もし〔後漢の初め、蜀を攻め滅ぼした〕呉漢のような男に出会ったならば、とっくに破滅していただろう。」また、「姜維は彼なりに当代の英雄であるのだが、わしと遭遇したために、追いつめられたのだ」ともいった。有識者はこれらの発言を嘲笑った。

(鍾会伝)

進攻剣閣,不克,引退,蜀軍保險拒守。艾遂至綿竹,大戰,斬諸葛瞻。
維等聞瞻巳破,率其眾東入於巴。
会乃進軍至涪,遣胡烈、田続、龐会等追維。
艾進軍向成都,劉禪詣艾降,遣使敕維等令降於会。維至廣漢郪縣,令兵悉放器仗,送節傳於胡烈,便從東道詣会降。

前進して剣閣を攻撃したが勝てず、引き退いた。蜀軍は要害にたてこもって守りを固め抵抗した。鄧艾はそのまま綿竹に到達し、大会戦を行い、諸葛瞻を斬った。
姜維らは諸葛瞻がすでに敗れたと聞くと、部下をひきいて東に向い、巴に入った。鍾会はそこで軍を進めて涪まで来ると、胡烈・田続・龐会らを派遣して姜維を追撃させた。
鄧艾は軍を進めて成都に向った。〔蜀帝〕劉禅は鄧艾のもとに赴いて降伏すると、使者を派遣して姜維らに命じ、鍾会に降伏させた。
姜維は広漢郡の郪(し)県まで来ると、兵士に命じて武器類をすべて捨てさせ、割符などを胡烈のもとに送ると、すぐさま東の街道を通って鍾会のもとに赴き降伏した。

(姜維伝)

而鄧艾自陰平由景穀道傍入,遂破諸葛瞻於綿竹。
後主請降於艾,艾前據成都。
維等初聞瞻破,或聞後主欲固守成都,或聞欲東入呉,或聞欲南人建寧。
於是引軍由廣漢、郪道以審虛實。

ところが鄧艾は陰平から景谷道を通って〔剣閣の〕脇から侵入し、かくて綿竹において諸葛瞻を撃破した。
後主が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都を占領した。
姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、後主は成都を堅守するつもりでいるとか、東方の呉に入国するつもりであるとか、南方の建寧に入るつもりであるとか、いろいろの情報が流れた。
そこで軍を引いて、広漢・郪(し)の街道を通りつつその真偽を確認しようとした。

(注)

臣松之以為盛之譏維,又為不當。於時鍾會大眾既造劍閣,維與諸將列營守險,會不得進,已議還計,全蜀之功,幾乎立矣。但鄧艾詭道傍入,出於其後,諸葛瞻既敗,成都自潰。維若回軍救內,則會乘其背。當時之勢,焉得兩濟?而責維不能奮節綿竹,擁衛蜀主,非其理也。會欲盡坑魏將以舉大事,授維重兵,使為前驅。若令魏將皆死,兵事在維手,殺會復蜀,不為難矣。夫功成理外,然後為奇,不可以事有差牙,而抑謂不然。設使田單之計,邂逅不會,復可謂之愚闇哉!

臣裴松之の意見。
孫盛の姜維に対する避難はやはり妥当ではないと考える。当時、鍾会の大軍はすでに剣閣まで到達していたが、姜維が諸将とともに陣営を連ねて要害を防衛したからこそ、鍾会は侵攻することができず、帰還の計画を相談しはじめたのであって、蜀を無事に守りきる功業は、ほとんど樹立されるところだった。ただ鄧艾がぬけ道を通って脇から侵入し、その後方に進出し、諸葛瞻が敗北したのち成都が自滅したのである。姜維がもし軍をめぐらして国内の救援に向かっていたならば、鍾会はその背後を襲っていたであろう。当時の情勢ではどうして〔剣閣と国内の〕両方を救うことが可能であったろうか。それなのに姜維が綿竹で忠節を奮うことができなかったとか、蜀の君主を護衛できなかったとか非難しているのは、理屈にあわない。

(張飛伝)

苞子遵為尚書、隨諸葛瞻於綿竹、与鄧艾戦、死。

(黄祟伝)

権留蜀子祟、為尚書郎、隨衛将軍諸葛瞻拒鄧艾。到涪県、瞻盤桓未近、祟屢勧瞻宜速行據険、無令敵得入平地。瞻猶与未納、祟至於流涕。会艾長駆而前、瞻卻戦綿竹、祟帥厲軍士、期於必死、臨陣見殺。

(李恢伝)

恢弟子球、羽林右部督、隨諸葛瞻拒鄧艾、臨陣授命、死於綿竹。

(蔣斌伝)

子斌嗣、為綏武将軍、漢城護軍。
魏大将軍鍾会至漢城、与斌書曰、
「巴蜀賢智文武之士多矣、至於足下、諸葛思遠、譬諸草木、吾気類也。桑梓之敬、古今所敦。西到、欲奉瞻尊大君公侯墓、当灑掃墳塋、奉祠致敬。願告其所在!」

魏の大将軍鍾会は漢城に到達したとき、蔣斌に手紙を送って述べた、「巴蜀には才智に秀でた文武の士が多いが、足下や諸葛思遠(瞻)となると、草木をたとえにとれば、私と同じ種族(漢民族)に属します。故郷(先祖)への尊敬は、今も昔も大事にすることです。西方に着いたならば、あなたの父君の墓に詣で、墳墓を掃き清め、祭祀を行い、敬意を表したいと存じます。どうかその所在地をお教えください。」

華陽国志-劉後主志

冬,會以〔漢〕樂〔二〕城不下,徑長驅而前。翼、厥之至漢壽也,維、化〔亦〕捨陰平,〔皆〕還保劍閣,拒會。
〈《姜維傳》云:「翼、厥甫至漢壽,維、化亦舍陰平而退,適與翼、厥合,皆還保劍閣以拒會。」〉
會不能剋,糧運懸遠,議欲還。
而鄧艾由陰平、景谷傍〈字當作旁。謂非正路。〉入。
後主又遣都護諸葛瞻督諸軍拒艾,至「漢」涪,〈各舊本並有漢字。下文只作涪。《三國志‧諸葛瞻傳》亦作涪。漢字當衍。〉不進。
尚書郎黃崇,權子也,勸瞻速行固險,無令敵得入「坪」〔平〕。〈各舊本皆作坪。《三國志‧黃權子崇傳》作「平地」。上文言漢中城守,亦曰「入平」。故改。〉
言至流涕。瞻不從。
前鋒已破,艾徑至涪。瞻退保綿竹。
艾書誘〈元豐、錢、劉、李、《函》、廖本並作誘。張佳胤改作與。吳、何、王、石本依之。浙本剜改作誘。〉瞻曰:若降者,必表封琅琊王。〈舊各本並作「琅邪」。廖本改「琅琊」。〉
瞻怒,殺艾使,戰於綿竹。瞻軍敗績。瞻臨陣死。
崇及羽林督李球、尚書張遵,皆必死,沒命。
瞻長子尚歎曰:「父子荷恩,不早斬黃皓,以致敗國殄民,用生何為。」乃驅馬赴魏軍而死。
百姓聞艾入「坪」〔平〕,驚迸山野。

264年(咸煕元-曹奐/-/元興元-孫休、孫皓)

(諸葛瞻伝)

次子京及攀子顯等、咸熙元年内移河東。

268年(泰始4-司馬炎/-/宝鼎3-孫皓)

華陽国志-大同志

四年
故中軍士王冨有罪逃匿密結亡命刑徒得數百人自稱諸葛都護起臨卭轉侵江原江原方畧吏李髙閭術縛冨送州刺史童策斬之
初諸葛瞻與鄧艾戰扵綿竹也時身失䘮或言生走深逃親兵言富貌似瞻故冨假之也

※諸葛瞻には直接関係しないが、諸葛瞻の死後の評判等参考用。

参考資料――索引(ちくま)

④275.276,300
⑤84,143,★149,176,387,390,403,414,429,432,449


275.276,……鄧艾伝(綿竹のこと)
300……鍾会伝(綿竹のこと)

84,……後主伝(綿竹のこと)
143,……諸葛亮伝
★149,……諸葛瞻伝
151……董厥、樊建伝(自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯、)
176,……張飛伝(綿竹のこと)
387,……黄崇伝(綿竹のこと、※詳しめ)
390,……李恢伝(綿竹のこと)
403,……張嶷伝(諸葛恪について手紙)
414,……蔣斌伝(鍾会の蔣斌宛手紙の中)
429,……姜維伝(諸葛瞻の敗戦を聞いた)
432,……姜維伝注(裴松之の姜維擁護の中)
449……宗預伝(諸葛瞻が朝廷の諸事をとりしきる)

参考資料――諸葛瞻伝

瞻字思遠。建興十二年、亮出武功、与瑾書曰、「瞻今已八歳、聰慧可愛、嫌其早成、恐不為重器耳。」年十七、尚公主、拜騎都尉。其明年為羽林中郎将、屢遷射声校尉、侍中、尚書僕射、加軍師将軍。瞻工書畫、強識念、蜀人追思亮、咸愛其才敏。毎朝廷有一善政佳事、雖非瞻所建倡、百姓皆伝相告曰、「葛侯之所為也、」是以美声溢譽、有過其実。景耀四年、為行都護衛将軍、与輔国大将軍南郷侯董厥並平尚書事。六年冬、魏徵西将軍鄧艾伐蜀、自陰平由景穀道旁入。瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住綿竹。艾遣書誘瞻曰、「若降者、必表為琅邪王。」瞻怒、斬艾使。遂戦、大敗、臨陣死、時年三十七。衆皆離散、艾長駆至成都。瞻長子尚、与瞻倶沒。

  干寶曰、瞻雖智不足以扶危、勇不足以拒敵、而能外不負国、内不改父之志、忠孝存焉。

  華陽国志曰、尚嘆曰、「父子荷国重恩、不早斬黄皓、以致傾敗、用生何為!」乃馳赴魏軍而死。

次子京及攀子顯等、咸熙元年内移河東。

  案諸葛氏譜云、京字行宗。

  晋泰始起居注載詔曰、「諸葛亮在蜀、尽其心力、其子瞻臨難而死義、天下之善一也。」其孫京、隨才署吏、後為郿令。尚書僕射山濤啟事曰、「郿令諸葛京、祖父亮、遇漢乱分隔、父子在蜀、雖不達天命、要為尽心所事。京治郿自復有称、臣以為宜以補東宮舍人、以明事人之理、副梁、益之論。」京位至江州刺史。

諸葛瞻は字を思遠という。
建興十二年(234)、諸葛亮が武功に出陣したとき、兄の諸葛瑾に手紙を送って、「瞻はいまもう八歳で、利巧なかわいい子ですが、早成して、大物にならないのではないかと気がかりです」と述べている。
(243)十七歳のとき公主をめとり、騎都尉を拝命した。その翌年(244)、羽林中郎将、あいついで射声校尉、侍中、尚書僕射と昇進し、軍師将軍の位を付加された。
諸葛瞻は書画が巧みで、記憶力がよく、蜀の人々は諸葛亮を追慕して、みな彼の才能を愛した。朝廷にちょっとした善政やめでたい事があるたびに、諸葛瞻がいい出したことではなくとも、人々はみなその話を伝えあって、「葛侯のなさったことだ」といった。このためすばらしい評判にみちみち、彼の実質以上でさえあった。
景耀四年(261)、行都護衛将軍となり、輔國大将軍・南郷侯の董厥とともに、平尚書事となった。
六年(263)冬、魏の征西将軍鄧艾が蜀を討ち、陰平から景谷道を通り侵入してきた。諸葛瞻は諸軍を率いて涪(ふ)に赴き駐留していたが、先鋒隊が敗北したので退却し、綿竹県に陣どった。鄧艾は手紙を送り、諸葛瞻を誘って、「もしも降伏したならば、必ず上表して瑯邪王にとりたてよう」といってきた。諸葛瞻は激怒し、鄧艾の使者を斬った。かくて合戦したが、大敗し、前線で死亡した。時に三十七歳。軍勢はすべてちりぢりになって逃亡した。鄧艾は長駆して成都に到着した。
諸葛瞻の長男諸葛尚は、父ともに戦死した。次男の諸葛京と諸葛攀の子諸葛顕らは、咸熙元年(二六四)、河東に移された。

(注)
干宝はいう。
諸葛瞻は危難を救うにたる智恵も、敵を防ぎ止めるだけの武勇ももたなかったが、しかしよく外は国家を裏切らず、内は父の志にそい、忠孝を貫いた。

『華陽国志』にいう。
諸葛尚は慨歎して、「父も子も国家の厚い恩義を荷っているのに、さっさと黄皓を斬らなかったために、敗北を招いてしまった。生きていて何になろうか」といい、かくて魏軍に突進して、討死した。

備考

三国志13の諸葛瞻。

三国志13諸葛瞻

三国志13諸葛瞻











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