2016.02.28
5518文字 / 読了時間:6.9分程度

三国志(さんごくし)とは、陳寿(西晋)が三国(魏、蜀、呉)について書いた歴史書の名前。
正史(国によって公式なものとされた歴史書。正統くらいの意味であって「正しい」とか「正確」というわけではない)。
清代に定められた「二十四史」にも含まれる。

三国志の扱う時代?

三国時代(220-280)と三国志の扱う時代には微妙にずれがある。
たとえば、三国志で有名な出来事である黄巾の乱(184)、赤壁の戦い(208)等はみな220年より遥かに前であり、やはり有名な人物である董卓(192没)、呂布(198没)等も220年以前に死んでいる。

紀伝体?

形式的には、紀伝体で書かれている。つまり編年体ではない。
そのため、年表的な流れを把握しづらいのが難点である。
その場合は「資治通鑑」等を利用するのが便利かもしれない。
もちろん、紀伝体で書かれていることによる良さ(ある個人について知りたい時にまとまっていて便利等)は当然備わっている。

「三国志」の評価

「文心雕龍」(南朝梁・劉勰)

至於《後漢》紀傳,發源《東觀》。袁張所制,偏駁不倫;薛謝之作,疏謬少信。若司馬彪之詳實,華嶠之准當,則其冠也。及魏代三雄,記傳互出。《陽秋》、《魏略》之屬,《江表》、《吳錄》之類。或激抗難征,或疏闊寡要。唯陳壽《三志》,文質辨洽,荀張比之於遷固,非妄譽也

至於晉代之書,系乎著作。陸機肇始而未備,王韶續末而不終,干寶述《紀》,以審正得序;孫盛《陽秋》,以約舉為能。按《春秋經傳》,舉例發凡;自《史》、《漢》以下,莫有準的。至鄧粲《晉紀》,始立條例。又擺落漢魏,憲章殷周,雖湘川曲學,亦有心典謨。及安國立例,乃鄧氏之規焉。

ただ陳寿の『三国志』だけは、文章も内容もよくゆきとどいている。荀勗や張華が陳寿を司馬遷や班固になぞらえたのは根拠なき称賛ではない
晋代の史書は、著作郎によって書かれた。陸機がその口あけをしたが完備せず、王韶之がそのあとをつづけたが完全な集結をみなかった。干宝の『晋紀』の記述は、明細正確で、秩序があり、孫盛の『晋陽秋』は要点を得た記述に能力を見せている。

(明治書院「文心雕龍」より)

この荀勗、張華による評価については、華陽国志に記述(「荀勗、令張華深愛之,以班固、史遷不足方也」)がある。

「史通(曲筆)」(唐・劉知幾)

夫以聖公身在微賤,已能結客報仇,避難綠林,名為豪傑。安有貴為人主,而反至於斯者乎?將作者曲筆阿時,獨成光武之美;諛言媚主,用雪伯升之怨也。且中興之史,出自東觀,或明皇〈即明帚。〉所定,或馬後攸刊;而炎祚靈長,簡書莫改,遂使他姓追撰,空傳偽錄者矣。陳氏《國志.劉後主傳》云:「蜀無史職,故災祥靡聞。」案黃氣見於姊歸,群鳥墮於江水;成都言有景星出,益州言無宰相氣;若史官不置,此事從何〈一作「何從」。〉而書?〈一多「之」字。〉蓋由父辱受髡,故加茲謗議者也。

参考資料――陳寿について

晋書の陳寿伝。

陳寿伝(晋書)

陳壽,字承祚,巴西安漢人也。少好學,師事同郡譙周,仕蜀為觀閣令史。宦人黃皓專弄威權,大臣皆曲意附之,壽獨不為之屈,由是屢被譴黜。遭父喪,有疾,使婢丸藥,客往見之,鄉黨以為貶議。及蜀平,坐是沈滯者累年。司空張華愛其才,以壽雖不遠嫌,原情不至貶廢,舉為孝廉,除佐著作郎,出補陽平令。撰《蜀相諸葛亮集》,奏之。除著作郎,領本郡中正。撰魏吳蜀《三國志》,凡六十五篇。時人稱其善敘事,有良史之才。夏侯湛時著《魏書》,見壽所作,便壞己書而罷。張華深善之,謂壽曰:「當以《晉書》相付耳。」其為時所重如此。或雲丁儀、丁暠有盛名於魏,壽謂其子曰:「可覓千斛米見與,當為尊公作佳傳。」丁不與之,竟不為立傳。壽父為馬謖參軍,謖為諸葛亮所誅,壽父亦坐被髡,諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳,謂亮將略非長,無應敵之才,言瞻惟工書,名過其實。議者以此少之

  張華將舉壽為中書郎,荀勖忌華而疾壽,遂諷吏部遷壽為長廣太守。辭母老不就。杜預將之鎮,複薦之於帝,宜補黃散。由是授禦史治書。以母憂去職。母遺言令葬洛陽,壽遵其志。又坐不以母歸葬,竟被貶議。初,譙周嘗謂壽曰:「卿必以才學成名,當被損折,亦非不幸也。宜深慎之。」壽至此,再致廢辱,皆如周言。後數歲,起為太子中庶子,未拜。

  元康七年,病卒,時年六十五。梁州大中正、尚書郎范頵等上表曰:「昔漢武帝詔曰:’司馬相如病甚,可遣悉取其書。」使者得其遺書,言封禪事,天子異焉。臣等案:故治書侍御史陳壽作《三國志》,辭多勸誡,明乎得失,有益風化,雖文豔不若相如,而質直過之,願垂採錄。」於是詔下河南尹、洛陽令,就家寫其書。壽又撰《古國志》五十篇、《益都耆舊傳》十篇,余文章傳於世。

日本語訳された陳寿伝(晋書)は、ここで読むことができる。

 →六朝文人伝 : 『晋書』(巻八十二)陳寿伝
  http://ci.nii.ac.jp/naid/110003819577

参考資料――華陽国志

華陽国志にもある。

華陽国志

陳壽

陳壽,字承祚,巴西安漢人也。少受學於散騎常侍譙周,治《尚書》、《三傳》,銳精《史》、《漢》。聰警敏識,屬文富豔。初應州命,衛將軍主簿,東觀秘書郎,散騎、黃門侍郎。〈《晉書‧壽傳》作:「仕蜀,為觀閣令史。」〉大同後,察孝廉。為本郡中正。

益部自建武後,蜀郡鄭伯邑、太尉趙彥信,及漢中陳申伯、祝元靈,廣漢王文表,皆以博學洽聞,作《巴蜀耆舊傳》。壽以為不足經遠,乃並巴漢撰為《益部耆舊傳》十篇。散騎常侍文立表呈其《傳》,武帝善之。「再」〈舊衍。說詳注釋。〉為著作郎。吳平後,壽乃鳩合三國史,著魏、吳、蜀三書六十五篇,號《三國志》;又著《古國志》五十篇;品藻典雅。中書監荀〈《函海》有注云:「李本誤苟,惠校改荀。」〉勗、〈此下元豐本空二格。他各本連。〉令張華深愛之,以〈原省為字。〉班固、史遷不足方也。出為平陽侯相。華又表令次定《諸葛亮故事》,集為二十四篇。時壽良亦集,故頗不同。復入為著作。鎮南將軍杜預表為散騎侍郎,詔曰:「昨〈吳、何、王、石本作作。〉適用蜀人壽良具員。且可以為侍御史。」上《官司論》七篇,依據典故,議所因革。又上《釋諱》、《廣國論》。華表令兼中書郎。而壽〈元豐本作受。〉《魏志》有失勗意,勗不欲其處內,表為長廣太守。繼母〈《晉書》本傳無繼字。〉遺令不附葬。以是見譏。數歲,除太子中庶子。太子〈「傳從」舊各本作傅從。劉、李、石本作傳從。〉〔廢〕〔徙〕〈依顧廣圻校稿改,轉徙。茲定為廢徙。說詳注釋。〉後,再兼散騎常侍。惠帝謂司空張華曰:「壽才宜真,不足久兼也。」華表欲登〈吳、何、王、石本作兼。〉九卿,會受誅,忠賢排擯。壽遂卒洛下,位望不充其才,當時冤之。

兄子符,字長信,亦有文才,繼壽著作佐〈元豐本作左。〉郎,上廉〈吳、何、王、石本作兼。〉令。符弟蒞,字叔度,梁州別駕,驃騎將軍齊王辟掾,卒洛下。蒞從弟階,字達之,州主簿,察孝廉,褒中令,永昌西部都尉,建寧、興古太守。「階」〈顧觀光云:「階,當作皆,觀下文可見。」茲逕改。〉〔皆〕辭章粲麗,馳名當世。凡壽所述作二百餘篇,符、蒞、階各數十篇。二州先達及華夏文士多為作傳,大較如此。時梓潼李驤叔龍,亦雋〈吳、何、王、石本作俊。〉逸器,知名當世。舉秀才,尚書郎。拜建平太守,以疾辭不就,意在州里。除廣漢太守。初與壽齊望,又相昵友。後〈廖本作後。他各本作後。〉與壽情好〈元豐本作意。〉攜隙,還相誣攻。有識以是短之。亦自〈李本作有。列舊各本作別,廖本作列。〉傳。〈時字以下七十字,元豐,張、劉、吳、何、王、廖、浙、石本作大字,連上文。錢、《函》二本作雙行小字夾注。李本亦小字,在書頭。〉

「三国志」と「後漢書」?

「三国志」には、後漢の人物(たとえば黄巾の乱で活躍した皇甫嵩等)の伝は含まれていないことが多いので、そういう場合は適宜「後漢書」の方にあたる必要がある。
「三国志」と「後漢書」の双方に伝がある人物もいる(荀彧、袁紹等)。

また「後漢書」は西晋に作られた(陳寿は蜀→西晋と仕えた人物)「三国志」より、扱っている時代は古いが成立は後(南朝宋)。

「三国志」と「晋書」?

「後漢書」の場合と同じように、「三国志」の扱う時代の人物でありながら「三国志」には伝がなく「晋書」に伝(あるいは本紀)があるという人物がいるので注意が必要である。
その最大の例が司馬懿(孫の司馬炎が晋建国)であるが、晋成立前に死んだ竹林の七賢の阮籍や嵆康等も「晋書」に伝が含まれていたりする。
また「晋書」には「三国志」にはない「志」(三国志だけど)があるので、時代が近い分参考になることも多い。

また「三国志」著者である陳寿の伝も「晋書」にある。

「三国志」を読みたい?

正史「三国志」は、ちくま学芸文庫から日本語訳(完訳)が全8巻で出ている。
文庫本だから比較的安価で(たとえば後漢書のに比べれば……)、更に絶版でもなく入手しやすい。

原文はとりあえず維基文庫(中国語版ウィキソース)が便利。
もう少し信頼性の高い原文なら、中華書局のもの等適宜入手すればよさそうではある。
また、三国志原文も含まれているので、個人的には、中華書局の「三国志集解」1冊を揃えておけば置き場所と予算的にもとりあえず充分なのではないかという考え。

「三国志」と日本との関連?

「魏志倭人伝」は「三国志」の一部である。卑弥呼等は「三国志」に登場する人物でもある。
また、日本側では「日本書紀」の文章(漢文)には、「三国志」の影響(蜀書を除く)が伺えるらしい(岩波文庫「日本書紀(五)」解説より)。(→関連記事

日本書紀(五)(岩波文庫)解説より

『漢書』についで、多く利用された史書は『後漢書』である。『漢書』がほぼ書記の全巻にわたるのに対して、『後漢書』の方は、主として書記の後半の諸巻に多く利用される。更に『三国志』(呉志・魏志のみ)から、『梁書』『隋書』に及ぶ。
……
結局、史書の直接の利用は、『漢書』『後漢書』『三国志』(蜀志を除く)が中心をなし、『梁書』『隋書』はその一部分といえる(史記は直接に利用されたか否か問題である)。
これらの史書の利用箇処は、いずれもその帝紀が中心をなし、列伝の部分をあまり用いないことは、わが帝紀を中心とする書記の性格の一端を知ることができるであろう。

三国志の地理?

「三国志」には地名が結構登場する。
ちくま訳にはいくつか地図もつけられているので、その点でももっていると何かと役に立つ。
また「晋書」の地理志は、地図ではないが地理をおさえる上では便利。

たとえば荊州が真ん中あたりで益州が西のほう……といった大雑把な知識は、三国志ゲームのマップ等でも覚えられるが、多少詳しい地図が欲しい場合は、三国志解説本の現物をみてほしい地図があるなら手に入れるか、あるいは「中国歴史地図集」(ただし中国語、簡体)が便利といえば便利。

それ以外では、「三国志地図」で検索すると現在一番上に出てくるサイトのものが非常に便利でおすすめである。

 →三国志地図
 http://www.project-imagine.org/mujins/maps.html

三国志年表(簡易版)

184年 黄巾の乱
189年 霊帝死去、董卓献帝を擁立
192年 董卓、養子の呂布に殺される
196年 曹操、献帝を許に迎える
197年 袁術皇帝を自称
198年 呂布、曹操に敗れて殺される
199年 袁術病死
200年 官渡の戦い(曹操対袁紹)、孫策暗殺される
208年 赤壁の戦い(曹操対劉備&孫権)
211年 潼関の戦い
214年 劉備、劉璋を破り、蜀を取る
219年 定軍山の戦い、夏侯淵殺される、荊州で関羽殺される
220年 曹操死去、曹丕が即位して魏建国
221年 劉備即位、蜀(漢)建国、夷陵の戦い(劉備対孫権)
222年 孫権即位、呉建国
223年 劉備死去
228年 諸葛亮北伐開始
234年 五丈原の戦い(蜀対魏)諸葛亮、五丈原で病没
252年 孫権死去
256年 段谷の戦い
263年 蜀滅亡(魏による)
265年 魏滅亡(晋に禅譲)、晋建国
280年 呉滅亡(晋による)

三国志の主な人物10選

張角、董卓、呂布、袁紹、曹操、
劉備、孫堅、孫権、諸葛亮、司馬懿

※個人的人選

現代日本における「三国志」?

「三国志」とは、狭義ではこの歴史書としての「三国志」をさすが、現代日本では、三国志演義(三国演義)を指すことも多い。
また、「三國志」はコーエー(光栄、コーエーテクモ)の歴史シミュレーションゲームのシリーズの名称でもあり、「三国志」は単にこのゲームの「三國志」シリーズをさす場合もある。
またこれらをひっくるめて漠然と「三国志」(趣味あるいは創作やゲーム等のジャンルとしての「三国志」等)と指すことも多い。

このようなことから、たとえば「三国志ではこうだった」とある場合、それがどのような「三国志」を指すものなのかは文脈その他から推測する必要がある。

面倒ともいえるが、それだけ充実しているとポジティブにとらえることもできるだろう。

三国志好きという場合、どれか一つに限定される人もいないわけではないだろうが、大多数としては複数の三国志を愛好していることが多い(正史三国志+ゲーム三国志等)のではないか。

専門家は三国時代といい三国志時代とはいわないので、その辺ですみ分けができるといろいろ良いのではないかというのが最近の個人的考え。


さいごに、個人的な三国志考察が好きなので、そういったものが増えていくといいというのが個人的な願望……。

関連

三国陳寿裴松之三国志集解

その他

「三国志」原文(維基文庫)
「後漢書」原文(維基文庫)
「晋書」原文(維基文庫)
「資治通鑑」原文(維基文庫)











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