2016.12.29
5103文字 / 読了時間:6.4分程度
三国志

鍾会の乱の時系列は、蜀征伐と一緒にすると長くなってややこしいので、その部分だけ整理してみることに。

前の記事からの続き。

263-264年、年末年始の鍾会、鄧艾、衛瓘の整理

蜀は263年の11月に降伏。
詳細な日付とかあったっけ?

陳留王紀に11月とあるだけ。

(後主伝)

冬、鄧艾破衛将軍諸葛瞻於綿竹。用光祿大夫譙周策、降於艾……

後主伝は冬しかないから、あとは他で探すしかないけどとりあえずいいや。

とりあえず、陳留王紀、鄧艾伝、鍾会伝、姜維伝、衛瓘伝(晋書)の該当部分を引用してみることに。

陳留王紀の263-264年末年始

基本の陳留王紀。

蜀滅亡が11月なことは書いてある。それ以上の日付がどこかに書いてあるかは知らない。

(陳留王紀)

十一月,大赦。

自鄧艾、鍾会率衆伐蜀,所至輒克。是月,蜀主劉禅詣艾降,巴蜀皆平。

十二月……

乙卯(24日),以征西将軍鄧艾為太尉,鎮西将軍鍾会為司徒。皇太后崩。

咸熙元年春正月壬戌(1日),檻車徵鄧艾。

そして、12月24日に鄧艾を大尉、鍾会を司徒にしている。
その後に皇太后崩御が書いてあるけれど、同日なのかはよくわからない。

てことで、前の記事の話に戻れば、クリスマスイブの日付でこの題材を扱うなら鍾会が司徒になったりした日がいいんだろうけれど(旧暦とかはどのみち三国志+クリスマスなので不問)、当日には当人たちも知らされていないだろうと思えばなにも思いつかなかったんだから仕方ない。
この話はおわり。

鄧艾伝の大尉と檻車の時期関連

鄧艾伝はこんな感じ。

(鄧艾伝)

十二月,
詔曰:「艾曜威奮武,深入虜庭,斬将搴旗,梟其鯨鯢,使僭號之主,稽首系頸,歴世逋誅,一朝而平。兵不逾時,戦不終日,雲徹席捲,盪定巴蜀。雖白起破強楚,韓信克勁趙,呉漢禽子陽,亞夫滅七国,計功論美,不足比勛也。其以艾為太尉,增邑二萬戶,封子二人亭侯,各食邑千戶。」

艾言司馬文王曰:
「兵有先聲而後實者,今因平蜀之勢以乘呉,呉人震恐,席捲之時也。然大舉之後,将士疲勞,不可便用,且徐緩之;留隴右兵二萬人,蜀兵二萬人,煮鹽興冶,為軍農要用,並作舟船,豫順流之事,然後發使告以利害,呉必歸化,可不征而定也。今宜厚劉禅以致孫休,安士民以來遠人,若便送禅於京都,呉以為流徙,則於向化之心不勸。宜権停留,須來年秋冬,比爾呉亦足平。以為可封禅為扶風王,錫其資財,供其左右。郡有董卓塢,為之宮舍。爵其子為公侯,食郡内縣,以顯歸命之寵。開廣陵、城陽以待呉人,則畏威懷德,望風而從矣。」

文王使監軍衛瓘喻艾:「事當須報,不宜輒行。」

艾重言曰:
「銜命征行,奉指授之策,元惡既服;至於承製拜仮,以安初附,謂合権宜。今蜀舉衆歸命,地盡南海,東接呉会,宜早鎮定。若待国命,往複道途,延引日月。春秋之義,大夫出疆,有可以安社稷,利国家,專之可也。今呉未賓;勢與蜀連,不可拘常以失事機。兵法,進不求名,退不避罪,艾雖無古人之節,終不自嫌以損於国也。」

鍾会、胡烈、師纂等皆白艾所作悖逆,變釁以結。
詔書檻車徵艾。

ところで、洛陽と成都の移動は何日くらいかかるのかなあという疑問。

陳留王紀によると12月24日に鄧艾を大尉にする詔が出ている。
その後に成都に報告という流れだと素直に考えれば、24日に洛陽から発送された(?)書類的なにか(口頭だけじゃないと思うし)は、だいたい何日くらいで成都に到着するのかという話。
当時、最大限にお急ぎ便だったとして、一週間で届くものなのかなあとか。

まあ多分がんばれば届くんだろうと考えておこうかな。

陳留王紀に「咸熙元年春正月壬戌(1日)檻車徵鄧艾」ってあるから、基本私の場合、三国志の史実というのは史書三国志準拠という意味で考えているし、この陳留王紀の記述をスルーする理由も特にいまのところないし……。

てことで、鄧艾は大尉になったことを知る前に捕縛されたんじゃないかな?

この辺は、この時期の鄧艾を扱う場合、大尉になった鄧艾が司馬昭に呉を攻めようとかいう手紙を出していると書くと、オリジナル要素になる可能性がある(別にオリジナル要素は全然いいと思うけど。小説読んで史実がわかると思うほうが、小説がなにかわかっていないってだけだと思うし)ということは注意したほうがよさそう……。

鍾会伝の場合

鍾会伝も鄧艾伝と似たような流れ。

(鍾会伝)

十二月詔曰:
「会所向摧弊,前無強敵,緘制衆城,罔羅迸逸。蜀之豪帥,面縛歸命,謀無遺策,舉無廢功。凡所降誅,動以萬計,全勝獨克,有徵無戦。
拓平西夏,方隅清晏。其以会為司徒,進封縣侯,增邑萬戶。封子二人亭侯,邑各千戶。」

会内有異志,因鄧艾承製專事,密白艾有反狀,

於是詔書檻車徵艾。
司馬文王懼艾或不從命,敕会並進軍成都,監軍衛瓘在会前行,以文王手筆令宣喻艾軍,艾軍皆釋仗,遂收艾入檻車。

会所憚惟艾,艾既禽而会尋至,獨統大衆,威震西土。
自謂功名蓋世,不可復為人下,加猛将銳卒皆在己手,遂謀反。

……

会得文王書云:
「恐鄧艾或不就徵,今遣中護軍賈充将歩騎萬人徑入斜谷,屯樂城,吾自将十萬屯長安,相見在近。」

会得書,驚呼所親語之曰:
「但取鄧艾,相国知我能獨辦之;今來大重,必覺我異矣,便當速發。事成,可得天下;不成,退保蜀漢,不失作劉備也。我自淮南以來,畫無遣策,四海所共知也。我欲持此安歸乎!」

会以五年正月十五日至,其明日,悉請護軍、郡守、牙門騎督以上及蜀之故官,為太后發喪於蜀朝堂。
矯太后遺詔,使会起兵廢文王,皆班示坐上人,使下議訖,書版署置,更使所親信代領諸軍。
所請群官,悉閉著益州諸曹屋中,城門宮門皆閉,嚴兵圍守。

……

十八日日中,烈軍兵與烈兒雷鼓出門,諸軍兵不期皆鼓譟出,曾無督促之者,而爭先赴城。
時方給與姜維鎧杖,白外有匈匈聲,似失火,有頃,白兵走向城。
会驚,謂維曰:「兵來似欲作惡,當云何?」
維曰:「但當撃之耳。」
会遣兵悉殺所閉諸牙門郡守,内人共舉機以柱門,兵斫門,不能破。斯須,門外倚梯登城,或燒城屋,蟻附乱進,矢下如雨,牙門、郡守各緣屋出,與其卒兵相得。
姜維率会左右戦,手殺五六人,衆既格斬維,爭赴殺会。
会時年四十,将士死者數百人。

陳留王紀、鄧艾伝の記述とつきあわせると、「遂收艾入檻車」時点で、既に264年1月1日になっていることに。

鄧艾は大尉になったことを知る前に檻車にはいっていたかもしれない。
ただ、鍾会は司徒になったことは知っているはず。
それは、その司徒詔勅と同じ12月24日(かその後)の皇太后の死を鍾会は知っている以上、知らないわけもないだろうなとか。

(鍾会伝)

会以五年正月十五日至,其明日,悉請護軍、郡守、牙門騎督以上及蜀之故官,為太后發喪於蜀朝堂。矯太后遺詔,使会起兵廢文王,皆班示坐上人,使下議訖,書版署置,更使所親信代領諸軍。

そういえば、鍾会解釈の可能性はいろいろあると思うけど。

個人的趣味(最終的にはこれ)を一旦保留しておくと、この記述。
皇太后の遺詔を鍾会が偽造したことになっているのは、西晋(司馬氏)的都合の捏造で、本物だったとか、鍾会は本気で魏の忠臣だった――とかそういう解釈も、別にできなくはなさそうとも。

三国志も演義も(演義は、司馬氏悪役あるいは敵役にはしてあるけれど、根底の流れとか国力評価自体とかは司馬氏よりだという個人的見解)、司馬氏寄りではあるという見解なので、どっちも鍾会の捏造という流れが入念に準備されているだけ……とか。

とはいえ、好き嫌いの観点と個人的蓋然性の判断からは、その説はとるつもりはないけど。

個人的鍾会解釈は、蜀征伐計画自体が鍾会の野心的な計画の一環だった(鍾会は12月に司徒になったということは39歳で三公。これ以上出世するためにはどう考えても上につかえている司馬昭が邪魔だと思うし、それをしない理由も特にないと考えていただろうと見なすのが、鍾会の乱を起こしたことからみれば一番自然だと思うし。西晋の重臣になった人物とはその辺が性格やメンタリティの違いだったんだろうなとか)という感じ。

鍾会の細かい日程はどこまでつめられるかな。

1月1日には少なくとも成都にはきていないはず。
15日には成都に多分来ている(会以五年正月十五日至)。
その後の日程は鍾会伝の通りってことで。
1月の15日までのスケジュールはどうなってるのかなとか。

鍾会伝に「司馬文王懼艾或不從命,敕会並進軍成都,監軍衛瓘在会前行,以文王手筆令宣喻艾軍,艾軍皆釋仗,遂收艾入檻車。」ってあるし。
衛瓘は12月中に成都にいることはほぼ確か(1月1日に檻車に鄧艾をいれてるから前日には最低でも到着しているはず)。
ただ、鍾会ものんびり涪にいつづけたとも考えにくい。「敕会並進軍成都,監軍衛瓘在会前行」だし。

でも、1月15日に成都に到着したとすると、それはそれでのんびりかも。

ただ、1月1日に衛瓘が鄧艾を捕縛したから、その場合鍾会が成都に行く理由が消えるような。
まあ鄧艾がいなくなった以上、成都に鍾会が行くこと自体は、そんなに変でもないだろうけれど。むしろずっと涪に留まっているとしたらそれが一番不自然なような気もするし。

てことで、1月1日に鄧艾檻車、1月15日に鍾会成都到着という流れは、特に問題はないかも。
問題というか、気になるのは、鍾会の詳細なスケジュールなだけで。

どうなのかな。

鍾会の乱の頃の姜維

姜維伝自体はさっぱりしている。
ここにある注の方が演義にほぼ採用されたからメジャーな解釈になったけれど。

(姜維伝)

尋被後主敕令乃投戈放甲,詣会於涪軍前,将士鹹怒,拔刀斫石。
……
会既構鄧艾,艾檻車征,因将維等詣成都,自稱益州牧以叛。

欲授維兵五萬人,使為前驅。魏将士憤發,殺会及維,維妻子皆伏誅。

とりあえず時系列でわかること。

「尋被後主敕令乃投戈放甲,詣会於涪軍前」……これは劉禅降伏後なので、蜀滅亡後、11月以降ということはわかる。

「会既構鄧艾,艾檻車征」は1月1日。

「魏将士憤發,殺会及維」は1月18日。

てことで、姜維が鍾会と行動をともにしていたのは、1ヶ月程度から最大2ヶ月程度くらいということかなっていう。

晋書の衛瓘伝から衛瓘について

最後に、晋書にあるせいで読みづらい衛瓘伝から衛瓘について。

(晋書衛瓘伝)

鄧艾、鍾會之伐蜀也,瓘以本官持節監艾、會軍事,行鎮西軍司,給兵千人。蜀既平,艾輒承制封拜。

會陰懷異志,因艾專擅,密與瓘俱奏其狀。詔使檻車徴之,會遣瓘先收艾。會以瓘兵少,欲令艾殺瓘,因加艾罪。瓘知欲危己,然不可得而距,乃夜至成都,檄艾所統諸将,稱詔收艾,其餘一無所問。若來赴官軍,爵賞如先;敢有不出,誅及三族。比至雞鳴,悉來赴瓘,唯艾帳內在焉。平旦開門,瓘乘使者車,徑入至成都殿前。艾臥未起,父子俱被執。艾諸将圖欲劫艾,整仗趣瓘營。瓘輕出迎之,偽作表草,将申明艾事,諸将信之而止。

俄而會至,乃悉請諸将胡烈等,因執之,囚益州解舍,遂發兵反。於是士卒思歸,內外騷動,人情憂懼。會留瓘謀議,乃書版云「欲殺胡烈等」,舉以示瓘,瓘不許,因相疑貳。
瓘如廁,見胡烈故給使,使宣語三軍,言會反。會逼瓘定議,經宿不眠,各橫刀膝上。在外諸軍已潛欲攻會,瓘既不出,未敢先發。會使瓘慰勞諸軍。瓘心欲去,且堅其意,曰:「卿三軍主,宜自行。」會曰:「卿監司,且先行,吾當後出。」瓘便下殿。會悔遣之,使呼瓘。瓘辭眩疾動,詐仆地。比出閤,數十信追之。瓘至外解,服鹽湯,大吐。瓘素羸,便似困篤。會遣所親人及醫視之,皆言不起,會由是無所憚。及暮,門閉,瓘作檄宣告諸軍。諸軍並已唱義,陵旦共攻會。

會率左右距戰,諸将擊敗之,唯帳下數百人隨會繞殿而走,盡殺之。瓘於是部分諸将,羣情肅然。

「平旦開門,瓘乘使者車,徑入至成都殿前。艾臥未起,父子俱被執。艾諸将圖欲劫艾,整仗趣瓘營。瓘輕出迎之,偽作表草,将申明艾事,諸将信之而止。」は陳留王紀から1月1日ってことで。

「俄而會至,乃悉請諸将胡烈等,因執之,囚益州解舍,遂發兵反」は1月15日以降。
「會率左右距戰,諸将擊敗之,唯帳下數百人隨會繞殿而走,盡殺之」が1月18日。

とりあえず衛瓘は、鍾会に先行して成都に来ていて、その後鍾会が成都に来るまでの間も成都に居続けたっぽい感じ。

てことで、この1月前半、鍾会と衛瓘が何していたのかとか何を考えていたのかとかは気になるところではあったり。

おわりに

てことで、2016年版鍾会の乱考察ってことでいいかな。
2015年版に引き続き。

あとこれも関連記事かな。

まあ、2015年版とは扱っている時期とかが違うけれど。

大枠では変わってないような。
てか、2015年版は今年の1月に書いてた。

鍾会は楽しいテーマ。

来年も鍾会考察楽しめるといいなーというのが個人的希望。

おわり。





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