費禕暗殺で利益を得た人々
費禕暗殺についての記事を書いたけれど、もう少し考えたいところ。
その記事では、費禕暗殺で最も利益を受けるのは姜維、と書いたけど。
最も利益を得ていた、あるいはそれが際立っているのは確かに姜維かもしれないけれど。
もう少し考えてみると、費禕が死んで好都合な人は他にももっといるのではないかと思ったり。
ちなみに、魏は、費禕暗殺の結果姜維の北伐を招いているので、利益どころか不利益を被ったのは確かだと思うし。
詔勅で郭脩褒めてるけど……。
三国志の時代における政争あるいは権力闘争
ところで、政争というのはどの国にもあるけれど。
魏にしろ(曹爽一味の末路)、呉にしろ(諸葛恪はじめたくさん)、基本的に政争は殺すか殺されるかのやりとりになっているような。
で、疑問なのは蜀。
蜀では死人がでる政争は、魏や呉に比べるとほとんどないというかかなり少ないような印象もあったり(魏延くらい? 李厳とかも殺されてはいないし)。
これはどう受け取ればいいのかなあとか。
蜀は、魏や呉より良い国だったから……でいいのかっていうと微妙なような。
蜀好きだけれど、たぶんそういうわけでもないんじゃないかという印象。
ただ、死後も蜀での名宰相的名声が高かった諸葛亮の時代は実際にそうだったのかもしれないけれど、その後の時代については。
で、蜀には魏や呉ほどの政争がなかったようにみえる理由として、真っ先に思いつくのは、単に蜀の記録が少ないということだったり。
陳寿(もと蜀の人)が著者なわりには「三国志」は蜀の記述が少ない。
不思議な気がするのは、陳寿が直接知っている劉禅の時代の後主伝の記述が、やたらさっぱりしていることとか。
1年一行ちょっと程度でさくさくすすんでるし。
この辺は、蜀に史官いなかった(本当にそうなのかは怪しい?)という事情があるともいえるかもしれないけれど。
で、今日思いついたこと。
陳寿による蜀の記述がやたらさっぱりしてるのは、陳寿が曹髦の死とかをやたらさっぱり書いたように、理由はともかく陳寿があまり書きたくないから書いてないという可能性もなくもないんじゃないかなあとか。
蜀の後期は内部的にはぐだぐだだったけれど、蜀の悪い部分は蜀人の陳寿としては隠したいから隠しておいた、みたいな?
で、費禕暗殺から考えはじめたんだけれど再び、費禕暗殺は本当に外部から来た危険人物の単独犯行なのかなあという疑問に戻ることに。
黄皓の台頭と悪事?
蜀後期の悪い側面としては、宦官黄皓の専横が有名だったり。
でも、黄皓は具体的に何をしたのか、という疑問も。
とりあえずまとまっているのは陳祗伝とか。
(陳祗伝)
陳祗代允為侍中、与黄皓互相表裡、皓始預政事。祗死後、皓従黄門令為中常侍、奉車都尉、操弄威柄、終至覆国。蜀人無不追思允。及鄧艾至蜀、聞皓奸険、収閉、将殺之、而皓厚賂艾左右、得免。
祗字奉宗、汝南人、許靖兄之外孫也。少孤、長於靖家。弱冠知名、稍遷至選曹郎、矜厲有威容。多技藝、挾数術、費禕甚異之、故超繼允内侍。呂乂卒、祗又以侍中守尚書令、加鎮軍将軍、大将軍姜維雖班在祗上、常率衆在外、希親朝政。祗上承主指、下接閹豎、深見信愛、権重於維。
ここ以外だと諸葛瞻関連とかで、黄皓は閻宇を姜維にかえようとしていた、くらい?
まあ実際に専横はしていて、黄皓の存在を誰も無視できないくらいではあっただろうけれど。
ただ華陽国志の著者常璩は諸葛瞻関連で、陳寿は諸葛瞻に私怨があったために蜀の諸悪の原因を黄皓におしつけている、と評していたり(華陽国志曰、尚嘆曰、「父子荷国重恩、不早斬黄皓、以致傾敗、用生何為!」乃馳赴魏軍而死。)。
なので、陳寿の黄皓評はもしかすると厳しめなのではないかという可能性。
そして、陳寿の黄皓評が厳しめなのにもかかわらず具体的な悪行が書かれていないのは、亡国の原因を宦官に押し付けるという様式に黄皓をあてはめただけなのではないかという可能性ももしかしたらなくはないかもしれないし。
黄皓と姜維の対立
とはいえ、黄皓と姜維が対立していたこと自体があったのは確か。
なので、黄皓が諸悪の原因という考え方は、姜維寄りの思想なんじゃないかとも。
陳寿は譙周の弟子だけれど(とりあえず譙周は姜維の北伐を仇国論書いて反対した)、姜維伝はわりと充実しているし、姜維に悪意を持っているような(孫盛レベルは逆効果なくらい論外だとしても)印象もなかったり。
黄皓と姜維の政争は、その決着が付く前に魏が攻めてきたので中途半端になままになっただけ、と考えていいのかな。
あのまま魏が攻めてこなければどうなっていたかすごく気になったり。
姜維は成都に帰らないつもりだったらしいし。
(姜維伝)
五年(262),維率眾出漢。侯和為鄧艾所破,還住沓中。
維本羈旅托國,累年攻戰,功績不立。
而宦官黄皓等弄権於内,右大将軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇。維亦疑之,故自危懼,不復還成都。
あと、黄皓の蜀にとって最大の悪行は、魏が攻めてきたことを握りつぶしたことか。
(姜維伝)
六年(263),維表後主:「聞鐘会治兵關中,欲規進取,宜並遣張翼、廖化詣督堵軍分護陽安關口、陰平橋頭,以防未然。」皓徵信鬼巫,謂故終不自致。
このせいで蜀が滅びたと考えて蜀滅亡後、蜀の人間の黄皓評は最悪になっていたということはありそう。
鄧艾が黄皓を殺そうとしたらしいことも、その目的は人心を買うため以外に特に鄧艾にメリットはないだろうし。
黄皓と費禕たち
董允は、費禕よりも先に、というか蒋琬と同じ年(246年)に死んでいたり。
蜀の四相(諸葛亮、蒋琬、費禕、董允)、と並び称されるけれど、董允はわりと浮いているともいえるような。
他の3人と違って宰相の立場になったこともないわけだし。
で、董允の生きていた頃は黄皓は抑えられていた(そのために董允は慕われたらしい)ということなので、董允の死は蒋琬の死と同年(246)だから費禕の時代からは黄皓は頭角を著していったことになる。
費禕の死後(253-)は陳祗と結託して黄皓はさらに実権を握るようになった。
で、黄皓の専政がはじまったとされるのは、258年なので陳祗の死んだ年(258)。
董允、費禕、陳祗は黄皓を抑止できていたということかな。
黄皓と陳祗と姜維
陳祗と姜維について。
「(陳祗伝)大将軍姜維雖班在祗上、常率衆在外、希親朝政。祗上承主指、下接閹豎、深見信愛、権重於維。」
陳祗は、姜維が蒋琬や費禕と違って(同じ大将軍)朝政をわりと顧みずに外征に中心だったので、国内的には姜維以上に権力を握っていたとか。
ただし陳祗は黄皓と結託はしていたけれど、黄皓の専政には陳祗の頃にはなっていなかった。
つまり、258年黄皓の専政がはじまったのは陳祗死後姜維が黄皓を抑えられなかったから、という風にも考えられるかもしれない。
258年以降は姜維はそれまでに比べると北伐はほとんどしていない(262年くらい?)。
なので姜維も、国内のことを放置するつもりではなかったんだろうけれど、結果は芳しくないっていう。
黄皓の目的?
黄皓に何か目的があったわけではなく、劉禅に寵愛されて思い通りになるからできるかぎり濫用したくらいなんじゃないかな。
それと保身と。
だからそんなに長期的には考えていなそう。
宦官だし、皇帝に寵愛されるようになって調子にのっただけという印象。
黄皓と諸葛瞻と姜維1
今なんとなく考えている諸葛瞻像。
諸葛瞻は姜維との関係は特に良くはなさそう。
諸葛瞻にある程度の野心(あるいは志というかやる気)があれば、姜維はめのうえのたんこぶだろうし。
そして、けなしているだけに見える干宝の諸葛瞻評でも、「而能外不負国、内不改父之志、忠孝存焉。」とは評価しているので、能力不足というのは結果論として仕方ないにしても、諸葛瞻はやる気すらない系ではないだろうし。死に方にしても。
てことで。
諸葛瞻が姜維に対抗するために、とりあえず姜維と対立する黄皓と手を組むというのは別におかしくないような。
陳祗も、董允の死以降台頭してきていた黄皓と対立しなかったし。
でも、それは別に黄皓の手先とか仲間ということを意味するわけでもないだろうし。
姜維の当時の状況と年齢を考えると、姜維おろしの動きとかあってもいいかも。
黄皓と諸葛瞻と姜維2
(樊建伝)
自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯、
諸葛瞻・董厥・樊建が政務を担当し、姜維がつねに征伐で外地にいるようになってから、宦官の黄皓が、政治の実権をほしいままにしたが、みな互いにかばいあって、政治を矯正することができなかった。しかし樊建だけは、黄皓と特に親しく往来することがなかった。
それはそうと、「自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯」は何年のことだろう。
258年以降のこと(黄皓が権勢を握るようになってから)のようにみえるけれど。
ちなみに黄皓が専政を開始というのは、後主伝にそのとおり書いてあるので258年。(ついでに史官いるし)
(後主伝)
景耀元年(258)、姜維還成都。史官言景星見、於是大赦、改年。
宦人黄皓始專政。
ただ、「姜維常徵伐在外」となると、258年に姜維は成都に戻ってきていてその後しばらく北伐していないので、258年以降にあてはまらないんじゃないかなとか。
つまりこんなまだらな感じ?
自瞻、厥、建統事(→258-)、姜維常徵伐在外(→253-258)、宦人黄皓竊弄機柄(→258-)、咸共将護、無能匡矯(→258-)
なので、「宦人黄皓竊弄機柄」は後主伝に書かれている258年のことじゃなくて、黄皓と結託した陳祗が実権を握っていた253-258年のこととして考えてみたほうがいいのかも。
そうなると、一箇所だけ時期が違うというおかしなことにはならなくなるし。
とりあえず姜維が段谷で大敗(256)した後は、姜維おろしには絶好の機会だろうなとか。
257年の北伐は、方角がいつもと違うし(今回だけ関中)、呉との外交用北伐な気もするので(諸葛誕の乱で呉は魏と戦っている)姜維の立場とか発言力にはあまり関係なかったという可能性もありそうだし。
それとは別に黄皓にとって、この頃の姜維を引きずり落としたい積極的な理由はあったのかという問題。
姜維に邪魔されたくないだけなら姜維は外征中の方が都合がいいのではという疑問。
てことで。
今なんとなく考えているのは、黄皓は自分が権勢を握れていられれば後はどうでもいいという人物なんじゃないかと思う。
最後の魏のことを握りつぶしたこととか。
なので、姜維と本質的に対立していたのは黄皓ではなくて(彼らが劉禅を操れる黄皓にとりいっただけで)、閻宇なのかもしれないし諸葛瞻なのかもしれないし、その辺の人物だったんじゃないかと考えてみたり。
黄皓と諸葛瞻と姜維3
姜維は姜維伝によると、諸葛瞻の死後に諸葛瞻が綿竹で敗れたことを知っている様子(維等初聞瞻破)。
諸葛瞻は、姜維に鄧艾のことを知らせなかったのかなとか。
知らせても、裴松之も書いているようにこの時剣閣には鍾会がいて姜維はそれを防いでいたわけだけれど。とはいえ、鍾会を防ぐために綿竹に侵入した鄧艾を放置とか姜維はするかなあとか。鍾会を防いでも成都が落ちたら意味がないんだし。
なので、諸葛瞻は姜維に知らせる気はなかったんじゃないかという印象。
費禕暗殺と黄皓、陳祗、姜維
費禕暗殺で、わかりやすい利益を得たのはこの3人(黄皓、陳祗、姜維)ではないか。
なので、費禕暗殺首謀者の疑惑を姜維にかけるなら、黄皓、陳祗にかけてもいいわけだけど、253年当時の黄皓が魏からの降人を動かしたり成都でもない漢寿での暗殺の計画を実行にうつすのは無理がありそうな上に、そもそもこの時期の黄皓ならそこまで自分ができると考えたりはしないんじゃないかなとか。
陳祗でもいいけれど、そこまでする人なのかは不明。
今回のまとめ
とりあえず今回はこの辺まで。
あれもこれも陰謀と考えるのもそれはそれでやりすぎだけれど、疑がわしいものはとりあえず疑っておくこと自体は別に悪くないんじゃないかなとか。
自分の場合基本的に、実はこうだったというのよりはこういうIFも成り立つかもしれないあるいはこういう解釈も成り立つかもしれない、という感じだし。
ただ、費禕を姜維が殺したと考えるなら、同じように姜維を殺そうと考える人物がいるのも自然だろうなという感覚。
そうして、そういう権力闘争がないというのは(死人が出るほどやるかどうかは別)自分にとっては理解しづらい世界なので、権力者は下にいるある種の人間からはいつも死んでほしい(~殺す)と思われているんだろうなという世界観。
おわり。