鍾会と阮籍について、前にも似たようなことを書いたけど。
阮籍が尚書郎をやめたのは鍾会のせいという可能性について、考えてみることに。
尚書郎の鍾会と尚書郎阮籍は同僚だったことはあるのか?
とりあえず鍾会伝と阮籍伝を並べてみる。
▼鍾会伝
(鍾会母伝)
正始八年(247年鍾会23歳),會為尚書郎,
▼阮籍伝
(242-)太尉蔣濟聞其有雋才而辟之,籍詣都亭奏記曰:
……
遣卒迎之,而籍已去,濟大怒。
於是鄉親共喻之,乃就吏。後謝病歸。
複為尚書郎,少時,又以病免。
及曹爽輔政,召為參軍。籍因以疾辭,屏於田裏。
(249)歲余而爽誅,時人服其遠識。
宣帝為太傅,命籍為從事中郎。
及帝崩,複為景帝大司馬從事中郎。
高貴鄉公即位,封關內侯,徙散騎常侍。
鍾会ははっきりしてて、阮籍がわかりづらい。
「及曹爽輔政」がいつなのかなとか。
曹芳の補佐だとすると即位は239年なので、その時から曹爽は司馬懿と共に補佐してたはずだけど。
ただそうなると、その前に「太尉蔣濟」云々があって時系列的に前にみえるんだけど、蒋済が大尉になったのは242年。
魏書 斉王紀
(239)景初三年正月丁亥朔、帝甚病、乃立為皇太子。是日、即皇帝位、大赦。尊皇后曰皇太后。
大将軍曹爽、太尉司馬宣王輔政。……
(242)(正始)三年春正月、東平王徽薨。三月、太尉満寵薨。秋七月甲申、南安郡地震。乙酉、以領軍将軍蒋濟為太尉。冬十二月、魏郡地震。
なので、「及曹爽輔政」が斉王即位の239年だと阮籍伝の記述がごちゃごちゃになったり。
てことで、これは曹爽と司馬懿が「輔政」という状況ではなくて、曹爽が「輔政」(司馬懿抜き)という状況になったときのことだったらどうかなあとか。
となると、司馬懿が一旦退いた感じの時期かなとか。
(247)(正始)八年夏四月,夫人張氏薨。
曹爽用何晏、鄧颺、丁謐之謀,遷太后於永寧宮,專擅朝政,兄弟并典禁兵,多樹親黨,屢改制度。帝不能禁,於是與爽有隙。
五月,帝稱疾不與政事。時人為之謠曰:「何、鄧、丁,亂京城。」
これが247年。
となると。
阮籍伝のここ「複為尚書郎,少時,又以病免。及曹爽輔政,召為參軍。籍因以疾辭,屏於田裏」、参軍になったのは247年以降ということになって、尚書郎はそれ以前ということに。
つまり。
鍾会は尚書郎になったのは247年なので、阮籍が尚書郎をやめた後に尚書郎になった、ということになりそう?
鍾会と阮籍が同僚だった可能性if
てことで個人的には残念な結果だけど。
まあでも数日くらい重なってても完全に間違いということもなさそうな?
阮籍の「複為尚書郎,少時,又以病免。」が、すぐやめたのは鍾会のせいということにしても辻褄自体は完全にだめってわけでもなさそうな。
247年鍾会尚書郎に→阮籍尚書郎やめる→(247-249)阮籍、曹爽の参軍に――こんな感じでも別に悪くはないんじゃないかなあとか。
あと、年齢。
247年は、鍾会は23歳、阮籍は38歳。
とりあえずおわり。
(2014.09.06の記事移転)