2016.02.13
3569文字 / 読了時間:4.5分程度
三国志

今日はなんだかブログ書きがはかどる日だったり。

さっき、鍾会年表(資料)の記事を書いたけれど。
この年表データ自体は昔作ったものなんだけど、今回司隷校尉になったところを追加してみたり。

今回の記事は鍾会の司隷校尉就任の意味から鍾会の乱まで流れについて、書いてみたり。

鍾会が司隷校尉になった年?

陳寿の鍾会伝にいつって書いてないせいで、随分悩んでたけど。

鍾会伝の司隷校尉は、いつのことかはっきり書いていない

つまり鍾会伝はこんな記述。

(→鍾会伝

及誕反(257),車駕住項,文王至壽春,會復從行。

初,吳大將全琮,孫權之婚親重臣也,琮子懌、孫靜、從子端、翩、緝等,皆將兵來救誕。懌兄子輝、儀留建業,與其家內爭訟,攜其母,將部曲數十家渡江,自歸文王。會建策,密為輝、儀作書,使輝、儀所親信齎入城告懌等,說吳中怒懌等不能拔壽春,欲盡誅諸將家,故逃來歸命。懌等恐懼,遂將所領開東城門出降,皆蒙封寵,城中由是乖離。

壽春之破(258),會謀居多,親待日隆,時人謂之子房。軍還,遷為太僕,固辭不就。以中郎在大將軍府管記室事,為腹心之任。
以討諸葛誕功,進爵陳侯,屢讓不受。
詔曰:「會典綜軍事,參同計策,料敵制勝,有謀謨之勛,而推寵固讓,辭指款實,前後累重,志不可奪。夫成功不處,古人所重,其聽會所執,以成其美。」

遷司隸校尉。

雖在外司,時政損益,當世與奪,無不綜典。嵇康等見誅,皆會謀也。

文王以蜀大將姜維屢擾邊陲,料蜀國小民疲,資力單竭,欲大舉圖蜀。惟會亦以為蜀可取,豫共籌度地形,考論事勢。景元三年(262)冬,以會為鎮西將軍、假節都督關中諸軍事。

なので、鍾会伝からは258-262の間、くらいしかわからなかったり。

王粲伝の司隷校尉な鍾会は景元中

鍾会の名前のある別の箇所。

(→王粲伝

時又有譙郡嵇康,文辭壯麗,好言老、庄,而尚奇任俠。
至景元中,坐事誅。

(注)
又鍾會傳亦云會作司隸校尉時誅康;會作司隸,景元中也

景元年間は260年8月から265年5月まで。

というわけで、鍾会伝と王粲伝からは260年から262年冬までのあいだ――くらいしかわからなかったり。

陳留王紀の司隷校尉はヒントになりそう

てことで、年表だとどこかに入れなければならないから困ってたけれど。

陳留王紀に、鍾会の名前は出てないけれど、司隷校尉についてはあるから、これでいいんじゃないかなとか。

(→陳留王紀

(景元元年/260)十二月……甲午,以司隸校尉王祥為司空

つまり、260年12月に、それまで司隷校尉だった王祥が司空になったという記述

てことは司隷校尉が開くわけだから、この後任が鍾会だったんじゃないかなとか。

司隷校尉に誰が就任したかまでは本紀に書いてない感じだし。

というわけで、鍾会は260年12月に王祥の後任として司隷校尉になったと思う

てことで、年表はこの時(260年12月)に鍾会が司隷校尉になったことを採用

そして多分、兄鍾毓が荊州都督になったのもこの辺だったっけ……。

って、それは鍾毓荊州都督メモな記事によると261年(景元2年)なのか。

それはそうと、鍾会はなぜ司隷校尉になったのか

それはそうと、少し前には昇進より司馬昭の腹心でいることを選んだけれど、どういう心境(状況)の変化なのかという疑問はおこったり。

(鍾会伝)

軍還,遷為太僕,固辭不就。
以中郎在大将軍府管記室事,為腹心之任。

軍が帰還すると、太僕に昇進したが、固辞して就任せず、中郎として大将軍の役所におり、記室(書記官)の仕事をつかさどり、腹心の任をはたした

まあ司隷校尉になっても、腹心の実情は変わらないようにはしていたみたいだけれど。

遷司隸校尉。
雖在外司,時政損益,當世與奪,無不綜典。嵇康等見誅,皆会謀也。

司隷校尉に昇進した。
中央官庁から離れはしても、当時の政治上の変更や賞罰については、すべてとりしきった。
嵆康らが処刑されたことも、すべて鍾会の計策によるものだった。

とはいっても、この昇進が、それまでの司馬昭の腹心としての立場から、何の変化ももたらしていないかというとそれは疑問だったり。
腹心でありつづけているようにふるまい続けてはいたとしても。
後の出来事を考えても。

鍾会は司隷校尉に昇進してはじめて、権力者司馬昭の腹心としての権力だけではなくて(それは結局は司馬昭に依存して危ういものではある)、自分自身固有の地位や権力を持つようになった――という感じかなあ。

司隷校尉自体については、とりあえず父鍾繇もなってるけれど、結構有力者が就任しているポストでもあるみたいだし。

司隷校尉から死ぬまでの鍾会の流れについて

だいたいこんな流れ?

260年12月……鍾会、司隷校尉になる。
261年……兄鍾毓、荊州都督になる。
262年まで……鍾会、蜀攻略を考える。
262年冬……鍾会、鎮西将軍、仮節都督関中諸軍事(めんどくさいので関中都督と書いておく。他も基本的に同様)に就任。
263年……蜀征伐。
263年秋……兄鍾毓、死去。
263年12月……鍾会、司徒に。
264年1月……反乱(司馬昭討伐)に失敗して殺される。

鍾会が司隷校尉に就任したのは、司馬昭の腹心から司馬昭へ反乱を起こす、分岐点になっているんじゃないかなあとか。

そして、鍾毓の荊州都督も、少なくともここに実兄がいるのといないのとではかなり、反乱の成否の確率に関わってくると思うから、布石なような気もしたり

司隷校尉になった鍾会について「中央官庁から離れはしても、当時の政治上の変更や賞罰については、すべてとりしきった」とあるんだし、なら、兄に関する人事に口出しできないわけもないだろうし。

鍾会の反乱の目的は益州で自立じゃないと思うんだけど

鍾会の反乱について。ついでに。

劉備くらいにはなれる、の台詞が有名(すごく好きだけど)なせいなのか、益州で独立するつもりだったみたいな解釈が結構あるような?

ていうか、この三国志12の鍾会列伝でも「姜維と共に自立を図るが……」と書いてあるし。

三国志12列伝180鍾会

でも、鍾会伝を見る限り、鍾会の計画は姜維を先鋒にして北伐して長安、洛陽を落とす計画を練っていたし、大義名分は司馬昭を討伐せよとの密勅を受けたということだったり。

こう。

(鍾会伝)

欲使姜維等皆将蜀兵出斜谷,会自将大眾隨其後。
既至長安,令騎士從陸道,步兵從水道順流浮渭入河,以為五日可到孟津,與騎会洛陽,一旦天下可定也。

てことで、益州で自立説はどこから出てきたのかは謎。

別にそれがわるいとは思わないけれど、とりあえず自分の場合は採用しない説ではあったり。

鍾会の乱の性格について確認?

鍾会の反乱の目的は、毌丘倹たちや諸葛誕等と同じように、あるいは曹髦と同じように、司馬昭(司馬氏)討伐――ということは忘れないようにしないと、何故そんなことをしたのか意味がつかめないと思う。

あるいはそうじゃない解釈(野心なり唆されたなりで益州で自立しようとした説? おとなしく戻れば晋創業の第一の功臣くらいにはなれただろうに?)も、可能性はあるのかもしれないけれど。どうなんだろう。

とりあえず鍾会の目的については(名目と目的は同じとは全然限らないわけだし)、別に魏の忠臣だったわけじゃないと思うけど。

鍾会の乱の性格は何か。
それは単なる、司馬昭と鍾会との権力闘争ではなかったか。

この時点で、司馬昭からみて鍾会はそろそろいらなくなる走狗なのかもしれないけれども、鍾会のほうにとっても司馬昭はそろそろ用済みになる傀儡だったかもしれない可能性

そして、その決着をつけたのがこの鍾会の乱なのではないか。

そういう解釈から、鍾会の反乱の性格は、追い詰められてやむを得ず起こしたものというわけでもなかったし、また当然のことながら益州(という僻地)でわざわざ自立したがる奇特な趣味に走ったわけでもない――とは考えていたり。

鍾会の乱考察?

それはそうと、これは前にも書いたと思ってたけど、このブログでも書いてたことを思い出した。

鍾会の乱考察(2015年版)

とはいえ司隷校尉にはそれはあまり焦点をあててないし、まあ内容が同じ(解釈が似てるのは当たり前)じゃないからいいか。

一応2015年版って最初からタイトルにつけてあるし。

司隷校尉って何

あと、司隷校尉自体については、ここのブログがとっても参考になるのでとりあえず貼り付け。

まとめ

鍾会については、むかしブログに色々書いたけれど、もう5年近くたったから、改めて書きなおそうかな。

それほど変わってないところの方がおおいけれど、単にブログ移転に失敗して読みづらいから整理したいというのもあるし。

とりあえずおわり。





三国志





Comment


Memo.Medamayaki

三国志他歴史、小説、ゲーム等に関するメモ用ブログ。

TEMPLATE:Ateh's theme

×

Status


苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:

Setting

苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身地:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:





× 
×

Recent Posts

×

Custom Menu